仏教と人生の目的(1)



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投稿者: 錦太郎 @ sutkmax1-ppp08.ed.kagu.sut.ac.jp on 97/8/26 09:55:16

仏教は、全人類が聞かねばならない教えである。
それは、全人類にとってもっとも大切な人生の目的を教えられているからである。では、その目的とは何か。
 今回から数回にわたって、仏教と人生の目的について書き込みをしていこうと思います。



 人生の目的とは、人は何故生まれ、生きているのか。いかに苦しくとも生きねばならぬのは何故かということだ。「生きる」ことは「歩く」「飛ぶ」ことに例えられる。昨日から今日、今日から明日へと日々前進しているのが全ての人間である。「歩く」「走る」「泳ぐ」「飛ぶ」いずれも前へ進むことであるが,ここでもっとも大切なのは,どこへ向かって進むか、の目的地である。
 こう言うと、「目的なで知らなくても、一生懸命歩くことが尊いのだ」と思う人もあるかもしれないが、果たしてそうか。
「正しい道でなければ、走ったところでしょうがない」という諺がドイツにある。目的地に向かう正しい道でなければ、どれだけ一生懸命走っても徒労に終わるということだ。「一生懸命」は、必ずしも善ではない。向かう方角がまちがっていれば悲劇になるのだ。
 目的地を知らずに歩いていたら「到着」はないし、行きたいのと逆の方角なら、一層遠ざかってしまう。やがて必ず歩き疲れて、行き倒れになる。同様に、走っていれば走り倒れ、泳いでいれば土左右衛門、飛んでいれば墜落と、いずれも破滅が待っているのである。
 されば、目的を知ることは、もっとも大切なことなのだ。


目的を知る大切さ



 昭和六十二年に、ノーベル生理学賞(医学)に輝いた利根川進教授は、こう述べている。
「大半の学者は、何が本質的に重要か、見分けがつかないから、どうでもいいことで一生を終わっている」
 求めようとするものが、真に価値のあるものか否かを見極めないうちは、迂闊に求めてはならないということだ。
 科学にどれだけ大きく寄与しているかを問題にしての発言だが、これは学問に限らず、全てに通ずることである。
 我々の人生において、本質的に重要な、最優先課題は、誰もが求めている素晴らしい人生のカギ、「なぜ生きるか」の人生の目的なのである。

目的と使用法



我々が、何かを「素晴らしい」と感ずるのは、どんな時か。例えば、自動車を便利と思うのは、その目的と使用法を熟知してのことである。
 もし未開の土地の人たちに、高級車を与えても、それが何であるかを知らぬ彼らは、車の本当のすばらしさも知らずに宝の持ち腐れで終わってしまうに違いない。
 どんなに便利なものでも、目的と正しい使用方法を知らねば、素晴らしさを実感できないのだ。
 まして、我々の人生においてをや、である。

生命の歓喜 味わう身に


 その生命の歓喜を釈尊は、「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってか、この身を度せん」
「生まれ難い人間に生まれてよかった。聞き難い仏法がどうして聞けたのか。いま人生の目的を達成しなければ、永遠に救われるチャンスを失っていただろう」
と仰有っている。
 人間界に生を受ける困難さを、釈尊は、「雑阿含経(ぞうあごんぎょう)」に「盲亀浮木の譬」で示しておられる。
「大海の底に、目の見えない一匹の亀(盲亀)がいる。この亀は、百年にたった一度、海面に顔を出す。その時、海に漂う丸太ん棒(浮木)の小さな穴に、亀が首を通すことがあると思うか」
と、ある時釈尊が尋ねられた。
 お弟子の阿難が、
「そんなことは、ほとんど考えられないことです」
と答えると、釈尊は仰有った。
「誰でも、そんなことはあり得ないと思うだろう。しかし、大変長い間繰り返していれば、絶対にないとは言い切れない。人間に生まれることは、それよりも有難いことなのだ」
 私達が、平生感謝の意に使う「有難い(ありがたい)」とは、ここから出た言葉であるといわれる。
 大変低い確率の中、私達は人間に生を受けたのだ。いくら喜んでも喜びすぎることはない。
 人間に生まれてきたのは、釈尊の仰有る生命の歓喜を味わう身になるためであり、それには仏法を聞く以外にはないのである。
 では、素晴らしく生きるカギである、この生きる目的を、仏教ではどう教えられているのか。また、人生をどのように教えられているのか。
 次回は、仏教に教えられている人生の実相を聞いてみよう。


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