小説「夜桜」1(長文)



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投稿者: みお @ max2-ppp9.kasai.sannet.ne.jp on 98/3/24 07:15:28

In Reply to: 小説「夜桜」前置き。

posted by みお @ max2-ppp9.kasai.sannet.ne.jp on 98/3/24 07:14:20


 太正12年11月。帝都にもそろそろ冬の寒さが押し寄せつつあった。

「今日、帰り遅くなるから」
 大神は椿にそう告げた。
 舞台の終わったばかりの帝劇。ロビーはまだ観客でごった返している。
 椿は客の応対が一番忙しいときだった。
「どこへ行くんですか?」
 言いつつも、椿の手はお釣りの20銭を数えていた。
「…………………」
 大神は軽くため息をついた。手にしていたコートを羽織り、マフラーを巻く。
「消灯までには帰るから…」
 静かに椿に背を向ける。そのまま、劇場を出る観客の波に流れ込んだ。コートを着てしまえば、モギリの制服も目立たない。

 外へ出ると冷たい風が押し寄せてきた。
「ふう………」
 大神は口元をマフラーで隠すようにすると、何気ない顔で雑踏の中に紛れ込んだ。
 コートが翻って足取りを重くする。

「さくら…………」

 大神はぼんやりと街頭の光を見つめた。そして空を見る。
 空はどんより曇っていた。黄昏時の空。夕焼けなど、全く縁のない空だった。
 ゆっくりと、歩を進める。

「さくら さく………」

 突風に足を止める。冷たさが体を貫通していった。

 ドサッ

 地面に両膝をついた。全身から力が抜けていく。
 周りの人々が仰々しい目で大神を見つめていた。しかし、本人にその視線が届いているのかどうか。

「サクラ サク………」

 マフラーがふわり、と舞って地面に降り立った。思わずそれを両手でつかむ。
 冷えて堅くなっていた手に、突如指を動かした衝撃が走った。

「サクラ………」

 大神はゆっくりと立ち上がると、また歩き出した。
「待っていてくれ…」

(誰かはわからない。誰かが、俺を呼んでいる……)

サクラ………

(どうして俺が必要なんだ?それにいったい誰が……)

サクラ サク………

 体の中の何かが、見えない相手に反応していた。鼓動が早くなる。

「……………」
 だんだん、頭の中がぼんやりしてきた。ただ歩いているだけ。
 しかしその歩調はしっかりとしていた。

(俺は今どこにいて、何をしようとしているんだ……)

 わずかな自分の意志でさえ、打ち消されそうになる。
 体の感覚でさえ、麻痺していくようだった。一つだけ、わかるとすれば。
 ……足が痛むことだった。もうどれくらい歩いたのだろうか。

「さくら………」

 大神は足を止めた。
 すでに日は落ち、あたりには人影もほとんどなく、ただ暗闇のみがあった。
 風の音が鋭く響いている。

「さくら さく………」
 ぼんやりとした意識の中で。大神は一本の桜の木を見つめていた。
 その木はきたるべき春に向けて、堅い芽をその身に宿したところだった。

 大神はその木を見上げて、呟くように静かに言った。

「俺を呼んだのは…あなたですか」

 あたりを吹き抜ける風のように冷たく、抑揚のない声だった。