マリオはマリオでしかないのか(マリオ64)



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投稿者: hiv @ apopt9.iis.u-tokyo.ac.jp on 97/11/06 13:01:28

こんにちは。

大作ソフトを一度に沢山抱えると、どれもこれもなかなか終わらなくて、
新鮮なゲームが恋しくなってきますね。
そんなわけで、スターは71個しか集めてないけれども、とりあえず
マリオ64は一休みしようと思っています。

さて、最後にマリオ64の問題点を書こうと思っていました。
しかしこれが難しい。

このゲームは全編オリジナリティの塊のようなゲームで、こうあるべき
という姿を描くことができません。
野球ゲームだったら、本当の野球であればこうあるべき、ゲームである以上
野球といえどもこうあるべきという議論も可能なのですが。

そこで、このゲームをプレイしていて気になったことを一つ。

私はこのマリオ64というゲームをプレイしていて、一度も「はまる」と
いう状態になりませんでした。
一回プレイしてスターを2,3個集めると満足してしまい、「続きは明日」
と思って中断すると、一週間ぐらいプレイしなくても平気なんです。

で、またプレイを再開すると改めて「このゲームはすごいよなあ」と感じ、
この面白さは間違いなかろうと確信するのです。

これはいったいどういうことなのかと考えていました。
そして私が行き着いた結論は、「マリオはマリオでしかない」ということです。

もはやマリオは「僕のマリオ、私のマリオ」という存在にはなり得ないのでは
ないか。
それはあたかも太陽が誰にとっても太陽であるように、マリオはマリオでしか
あり得ない。
マリオというのはもはやそういう存在になっているのはないか。
そう思います。

やはり任天堂は既存のキャラクターに頼らず、新しいキャラクターを創り
出していくべきだと思います。
確かに「ヨッシー」なり「ドンキー」なりついている方が、問屋受けも良いし、
ある程度の需要が望める分、開発に回せる予算も多めにとれるかもしれません。
しかし、それではもう一段のブレイクは望めないでしょう。

今、自分的に「ゲームを買うということ」自体に胸の高鳴りを感じるのは
64しかありません。
SSが発売されたばかりの頃のときめきを、今しばらくは64に求めるより
仕方ないのです。

「発売日が待ち遠しい」、そんなゲームを是非お願いしたい。