短期集中連載 『GEYZER』 第二回



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投稿者: 柏木耕一(旧・日光) @ p19-dn01kuki.saitama.ocn.ne.jp on 97/9/21 20:07:56

 そこは暗かった。永劫の夜に包まれているのかとすら思える程、そこに光は存在しなかった。そして私はその闇の中で、もう何年も餌も食わず、じっとしているだけだった。
(……ォオオオォォ……)
 何故だろう。何故私はここに閉じこめられているのだろう。ちょっとしたお巫山戯のつもりだった……あんなことで壊れてしまうとは思ってもみなかったのだ。
 それを、あの連中は……追い立て、斬りつけ……自分の身もわきまえず、私に逆らったのだ−−この私に!

 そろそろ私も寿命が近づいている。もう鍵は開いている……私を見た女がいたはずだ。あいつを使えば、私はまた生まれることができる。
 そのために私を解き放つ駒も手に入れた。もう少しで私が生まれる。

 覚えているか? 忘れはしまい。この炎に傷を負わせた−−三浦宗二朗!

 おまえを真っ先に殺してやる。私がこの暗闇の中でどれほど苦しんだか、おまえにわからせてやる。おまえの愛する女を殺した私を、おまえは『妖』と呼んだな。私の弁明すら聞かず、おまえは私を斬り殺そうとしたな。神の下僕たる私に逆らったな。

 苦しめてやるぞ。おまえを苦しめ、その身に私の種を植え付け、腸を食いちぎらせてやる。おまえから生まれたもので、おまえが愛するもの全てを殺してやるぞ。

 三浦宗二朗!!!!

                ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「うわああああ!!」
 拓也は悲鳴を上げて跳ね起きた。古びたベッドが軋んだ音を立てて揺れる。
 しかしそんなことは気にせずに、彼は激しい動悸を抑えつつ、震える膝を抱きかかえた。圧倒的なまでの恐怖が彼を包んでいる。汗が体中を濡らしているせいで、僅かな寒気すら覚えていた。
 落ち着きを取り戻すため、ゆっくりと瞼を閉じる。そして心臓の鼓動を聞く−−もちろん聞こえるはずもないのだが、それでも聞こうとする−−そして指先の震えが止まるのを確認すると、ゆっくりと瞼を開く。
 そこは暗い部屋だった。彼が幼い頃から慣れ親しんだ部屋。
「……違う」
 拓也はぼそりと呟いた。慣れ親しんだわけではなかった。慣れざるを得なかったから慣れた、それだけの話だ。できることなら彼はここから逃げ出したかったのだ。
(それにしても、何て夢だ……)
 どろどろとした汚濁の中で、何かが蠢いているのが見えた。それは今まで拓也が見たこともないような、醜い化け物だった。どんな形だったのか、はっきりと覚えているわけではない。ただ人間の感性とはどうしても相容れぬ、過去人界には存在しなかった、そして−−こう願いたいと拓也は考えたが−−未来にもありはしない、あまりな醜さが『それ』の体中から発散されていたのだ。その醜悪さは見る者全てに悲鳴を上げさせ、冒涜的、禁忌的な考えを抱かせるに十分なものだった。
(……三浦……宗二朗?)
 聞いたこともない名前だ。秋川家には今まで何人か婿入りしてきた男もいるが、その中に三浦などという名字を持った男はいなかった。
(……親父に、聞いてみるか……)
 拓也は軽く頭を振ると、それまでのことを全て記憶の片隅に追いやり、シーツの中に潜り込んだ。
 眠気はすぐに襲ってきた−−身を任せる。そして拓也は深い眠りに落ちていった。

                  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「たーたん、朝ですよー。起きなきゃめっよー」
 ゆさゆさと体を揺さぶる手の感触と心地よい声。その二つで拓也は目を覚ました。
「たーたん。おはよー」
「おはよう、美雪」
 くしゃくしゃと頭を撫でてやってから、拓也は半身を持ち上げた。と、頭に鈍い痛みが走る。日頃の生活習慣が不規則かつ不摂生なおかげかどうかはわからないが、彼は完全な低血圧であった。朝は極端に苦手なタイプなのだ。
「たーたん、もう九時だよ。朝ごはん食べよう」
「ああ……そうだね。じゃあ美雪、食堂で待っていなさい。俺は着替えてから行くよ」
「はーい!」
 元気良く返事すると、美雪は小走りに部屋から出ていった。その後ろ姿を見やってから、拓也はのろのろとした動作で着替えを済ませる。コンタクトレンズを入れると、最近CMでやっていた目薬で点眼する。櫛で少しだけ髪型を整えると、それ以上身だしなみに関する行動はなくなった。扉を開け、一階応接室の隣にある食堂へと向かう。
 階段を降りる途中、何とはなしに視線を上に移動させた。そこから天井を見上げれば、白く高い壁にはめこまれた明かり取りの窓が見える。いつもは日光をホールの中に入れる役割を果たしているが、雨が降る日には流れる水滴を見るだけでも美しい。
(……?)
 ふと拓也は、一度瞬きをした。そして目を凝らし、窓をじっと見つめる。しかし勿論、見えるものと言えば、垂れ込めた暗雲と、窓に叩きつけられる銀色の線だけだ。
「……何だったんだ?」
 最初見た時、そこで何かが動いたような気がしたのだ。窓の外にいた何かが、かさっと隠れるように……。
(見間違い、か)
 考えてわからないことは考えない。それが拓也の信条だった。手すりによりかかるようにしながら階段を降りていき、食堂に入る。
 そこもまた広く豪奢な部屋だった。中央に長方形の大きな卓が置いてあり、その上に設置されたキャンドル型のライトが光を灯している。それに照らされて、同じく卓の上に置かれた食器やナプキンが濃い陰影を宿していた。
 そしてその光に溶け込むように、ぽつんと一人の女性が立っていた。
「美雪?」
 拓也には一瞬、それが美雪だとはわからなかった。雰囲気が美雪とは違う。
 しかしそれは間違いなく美雪だった。短く肩で切り揃えた髪、幼さを残す大きな瞳、桜色の唇。全体的に小さい体の造り−−それら全ては、美雪のものだった。
 しかしそこにいる美雪は、拓也がこの村に帰ってきてからの美雪ではなかった。幼児レベルにまで退行してしまった心−−そして、拓也と同い歳……二十一であるはずの心。その二つが混在している。
 口元だけの笑みを浮かべ、美雪はそこに立っていた。
「……み、ゆき?」
 喉がからからに乾いている。視界がぼやける。唐突に抱きしめるから無意味に叫びまわることまで含めて、いくつもの行動選択肢が拓也に与えられ−−彼が選んだのは、ただそこに立ち尽くし彼女の名を呼ぶというものだった。
「美雪?」
「そうだよ。おかえりなさい、拓也ちゃん」
 どろりとした何かが、美雪の瞳に浮かんだ。
 拓也はそして理解した。
 この女性は、三人目の美雪なのだということを。
「ただいま……変だな、何だか。もう、一回交わしたはずの挨拶なのに」
 拓也がやや上擦った声でそう言うと、美雪はくすくすと笑いをこぼした。
 照射角の低いライトが生み出す光は、二人の足下から影を延ばし、そしてそれは延びきった地点で交わっていた。
 部屋の中はわざと薄暗くなるようになっている−−拓也の父、源三郎の趣味だ。その薄暗さが美雪の神秘性をいや増している。陰影を体の様々な部位に映し出した彼女は、誰が見ても美しいとしか形容できなかったろう。
「どうしたの? 朝御飯、冷めちゃうよ」
「あ? あ、ああ」
 自分でもわかる程間の抜けた返事を返し、拓也は卓の一番下座についた。美雪は彼と向かい合うようにして椅子に座る。
(……何がどうなってるんだ?)
 何とも釈然としないと思いながら、それでも拓也は、空いた腹に食事を詰め込み始めた。

                 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 その日、朝比奈鉄心は上機嫌だった。彼は雨が好きだった。しとしとと降る小雨が境内の葉っぱを揺らしているのを見るのは、何とも言えず風情のあることだ。こういう静かな時間を、僅かな間でも保って欲しいものだと思う。太陽はあまり好きではない−−黄色く、美しくない。曇りの日はどうもはっきりしないから好きになれない。でも雨は違う−−雨は雨であり、静かで美しい。
 鉄心は秋沢寺の住職として暮らしていた。人口の少ないこの村では、彼の仕事は極端に少ない。それでも暮らしていけるのだから、坊主という職業は楽なものだと彼は常々考えていた。今年で四十六になるが、彼は今までの人生で苦労というものを経験した覚えはあまりなかった。寺の息子として生まれ、そのまま跡を継ぎ、可愛い妻をもらった。子供がないのは寂しいが、生まれたら生まれたで面倒があるだろう。それを考えると、彼は子供がいなくてもいいかと思う。
(さて、と……)
 彼は最近痛む腰をさすりながら立ち上がると、外に出て雨の降る様子を鑑賞しようとした。障子を開き、花の咲き誇る庭を見る。冷たい雫が彼の頬を撫でた。
 いつも通りの庭だった。
 ある一点を除けば、の話だが。
「何だ?」
 彼は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
 視線の先に、見たこともない『何か』がいた。全長は二m程だろうか? 太い丸太のような赤い体躯を持つ、毛虫のような何かだ。体には妙にぬらぬらと滑り気があり、その所々から触手が生えている。
(ば、化け物−−!)
 そう叫ぼうとした瞬間。
 その『何か』から伸びた触手が、鉄心の口腔に突き入れられた。声は喉で止まり、息もできなくなる。鉄心の口の中に異臭が広がった。たまらない嘔吐感がこみ上げてくるが、吐瀉物は触手のせいで外に出ることを許されず、食道と胃とを行き来するに留まる。
 化け物はその体躯をのそりと動かすと、頭部と思われる部位を鉄心の方に伸ばした。そこには人間の顔と思しき物体が付いていた−−しかしその表情は、あまりに邪悪すぎるものだった。鉄心はその邪悪さのあまり気を失いそうになる。
 しかしそうはならなかった。突然鉄心の腹に、熱い異物感が生まれる。
(……?)
 一瞬何が起きたのか理解できなかった。そしてじっくりと自分の腹を見て−−
(ああああああああああ!!!!!)
 心の中で絶叫を上げる。次いで襲う激痛。
 化け物の触手が、彼の腹を突き破っていた。肉を裂き体内に侵入した触手は、びじゃあという、濡れた雑巾を床に叩きつけたような音をたてて、彼の内臓を喰らい始める。胃が破られ、内容物と胃液が鉄心の体を焼いた。
(助けて助けて助けて助けて何だ何だ何だ何だ)
 絶望的な思考の混乱。鉄心は激痛故に意識を飛ばすこともできず、触手から逃れようと体をばたつかせた。
『……Yayauuweeee……』
 化け物が唸り声のようなものを上げた。悦楽に歪んだ声だ。鉄心の必死な抵抗を、彼は何より面白いことと認識したようだった。それを叩き潰して得る快楽に身を震わせよう。まるでそう考えたかのように、化け物は新しい玩具を与えられた子供さながらの表情を見せた。
 触手が伸びる。人間の手のように五本の指を有するそれは、鉄心の右腕にからみつくと、無造作にそれをへし折った。
(ああああああ……)
 化け物はさらに左腕をもへし折ると、今度は両足に数本の触手を絡みつかせた。
(何を……)
 する、という思考は紡がれなかった。その前に化け物が触手に力を込める−−そして鉄心の両足は、付け根から引き抜かれた。
(!!!!!!!!!!!)
 頭の中で何かが爆発した気がした。痛みが全身を駆けめぐる。吹き出した大量の血液が庭を赤く染め上げた。
 化け物がにたりと笑った。その顔が縦に割れる。牙と、赤く光る舌が蠢いているのが見えた瞬間。
 鉄芯の視界が暗黒に染まった。

 ばきり。

 音はたった一回しか響かなかった。 

                  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
 
「あなた、こんな日に外で何をしてるんです?」
 鋏を地に叩きつけたかのような音に気付き、鉄心の妻・和枝は傘を持って庭に出た。
 化け物は物陰に隠れ、じっと機会を窺う。

『見ていろ、三浦宗二朗。おまえを感じるぞ。中心にいるおまえを。外から内へ、おまえを追い詰めてやる。おまえを一番最後に、ヒトどもの死体の山の頂に飾ってやる』

「……ひぃっ!」
 丁度女が、男の無惨な死体に気付いたようだ。
 さて、今度はどんなふうに狩ろう……彼は再び、愉悦に顔を大きく歪めた。

 続く