実験小説『時の使者』



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投稿者: さすらい @ 133.65.41.10 on 98/1/19 15:41:31

 時たま、言い様のない気怠さに包まれる。抜け出せない。なにをするのもいやになる。勉強が1ページも進まない、音楽に集中できない・・・・。
 そんなとき、普通なら戻ろうと必死になるのだろうか。でも、私は弱いから、そのまま思考の渦に潜り込む。後ろでなにが流れていようと関係ない。誰の足音がしたって・・・・構わない。無視すればいいのだ、部屋に入ってきたら。そういう冷たさがあるから、私はやっていける。ある意味冷めている。
戻る、の表現に戸惑ったろうか。戻る、とは‘この現実世界に身を置く’事である。じゃ、私は死人か? そうではない。でも、いくら肉体としての私はこの現実にいて、キーを叩いていても、本当の‘私’はここにいない。思考の世界を浮遊している。考えはとびとびになり、まとまりを持たない。そういう不安定さの中に浮かぶことが、時たま必要なのだ。無意味な時間かもしれない、不安定で怖いかもしれない。でも、結構気に入っているのだ。だから、やめることはない。
 思考の世界。どんなところだろう。色はあるのだろうか。他人は来るのだろうか。考えると止まらない・・・。私は漠然と‘灰色の宇宙’をイメージしている。重力がなく、いちめんの灰色、浮かぶ自分。それだけだ。無彩色なのか色物もあるのかなんてわからない。在ったとしてもそれはまだ私の思考の世界に存在していない。別に考える必要もない。体から切り放された何かが、浮かんでるスペースがある、ただそれだけなのだから。

 今日は、ある意味鬱な日だった。嫌、ではない、ただ無気力だったのだ。雪が降っていた。長靴で楽しく雪山を歩いていた。心が満たされていた・・・・・少なくともあの時は。でも・・・・いつからだろう。気付いたら私の目は虚ろだった。首は激しく前傾し、口の端は緩やかな下降線を描いていた。不機嫌、ではない。楽しくもないが。ただ、動いている意味を失ったロボットのように、歩いていたのだ。歩くことしかしていなかった。普段やっている何気ない動作に全神経を集中していた。実際の所、そうしないと止まってしまいそうだったのだ。ネジが切れかけていた。相も変わらず‘世界が透明で、自分だけが不透明’感覚は続いていたのだが、いつもよりそれはひどいみたいだった。そう、体は地面に触れていても、‘私’は少し上空にいた。‘現実的’ではなかったのだ。存在しないのではない。ただ現実に在るのは私の一部だという話だ。なんて事はない。上空に浮かんでしまうような部分の‘私’など、本来誰も見ていないのだから、時たま入れ物から消えたって、気にならないだろう。気にされても困る。やめることは出来ないのだから。
 気にされても困る・・か。彼ならば気にするかもしれない。というか、気付くかもしれない。彼も同じ様なこと体験しているようだから。いや、勝手に仲間意識を持つのはやめよう。押しつけられるのは迷惑だろうし、こっちが滑稽だ。でも・・・・いやわからない。思考が空回りしている。いいけど・・・いいけどね。こうやっていちいち書き留めているのもおかしい気がする。手の動きが早いのが唯一の救いか。でも、書き留められるようなスピードで私の思考は流れていない。最大限、記しているだけだ。まだまだ漏れはある・・・。
彼は・・・私と関わって良かったのだろうか。未だに、疑問である。いやいや、こっちは嫌ではない。私は誰と関わることをも、拒まない。来るもの拒まず、去るもの追わず。まさにそうだ。なんの執着もない。なにを得ても、なにを失っても気にならない。今だけの、一時的な敗退的な思考だろうか。でも、そうではない気がする。いつだって・・・いや殆どの時間そう感じているから。でも、大人になってしまえばなくなるのだろうか。思春期特有の悩み、と笑える? それならそれでもいい。そうなる方がいい。普通になる方が・・楽だ。親に言われたなぁ、「どうせまともじゃないのだから、普通になる努力ぐらいしろ」と。普通じゃなくていいのだよ・・・・そう言いたかった。そんな馬鹿らしいことに努力するのなら、もっと有意義に力を使いたい。なにが有意義なのかさえ、分かっていないのかもしれないけれど。でも、いいのだ。いいのだよ・・・・・。
ああ・・・なにを考えていたっけ。そう、‘彼’のことだ。彼は・・・私とはおよそ正反対の人間だ。それでも、何かに惹かれた。人混みの中で見つけだせる何かを、彼は持っていた。だから・・・・だから、気になった。自分に何かが出来るとは思っていなかった。でも・・・なぜか近付きたかった。そう・・・・生まれて初めて人に近付きたいと思った。なんなのだろう。今までいろんな人と関わってきた。けれどそれは、距離を置いた付き合いで、いつも心の中で冷静に‘社交的な仮面をかぶっている自分’が見えていて。笑えた。とびっきりの苦笑いだろうか。とにかく、まともではなかった。自分の周りで人が来、去っていくのを見ていた。そう、ただ見ていた。冷静に観察し、それを現実を受けとめた。感情はない。友達が居なくて、でもどうしても誰かといたい子が寄ってきたこともあった。彼女のことを好きとも嫌いとも思えなかった。ただ、居ても居なくても良かった。ひどいことだ。でも、現実だ。教室移動の時に声をかけられれば、一緒に行った。お弁当も向こうが持ってくるから、一緒に食べた。でも、こちらからやった記憶はない。本当に・・・ない。思えば自発的にそんなことをやった記憶はほとんどない。ただ1人の親友に対して以外は。別に・・・1人で行動を起こすことになんの感情も持たなかった。空虚感もない、寂しくもない。嬉しくもないが、動きを会わせる相手が居ないだけ楽だと思っていた。これが、周りとどう違うのか分からない。同じように考える人がどれだけ居るのかも知らない。でも、そんなことはどうでもいい。これが私だ。ただそれだけを自分自身で掴んでいればいい。
 とにかく、私は私と正反対な彼にあった。いや、周りから見れば非常に似通っているのかもしれない。でも、分かっている。‘彼と私は根本的に違う’と。紫外線も赤外線も人間の目から見れば透明なように、だ。両極端の場合、在る基準を振り切ってしまえば、同じになってしまうのだ。目盛り外もゼロ以下も全て“測定不能”なのだから。
 彼にあった。彼を見た。彼の視線もこっちに向いた。それだけだ。偶然だか、必然だか、そんなことは関係ない。‘そうなった’のだ。私と彼の性別が違うことや、その他の現実的設定はなんの意味も持たない。実際問題としてあいてはそれを気にするとしても、私は構わない。‘彼’と‘私’が出会った、それが重要な問題なのだ。・・・誤解してもらっては困る。その途端に何かが変わったわけではない。長年かけて作ってきた‘自分’は、そうそう変わるものではない。ただ何らかの‘変化’の兆しが見えたのだ。今が始まりだと、分かったのだ。電撃ショック的な感触もない。ただ果てない泉に絵筆が一瞬触れたようなそんな感覚である。薄い色が泉に広がり、柔らかな波紋が広がり消え、色も消えた。そんなわずかな、ごくわずかな何かだった。でも、いつもと何かが違っていた。それだけは分かっていた。
 笑える話だが、恋ではない。それは自分でも分かる。そんな思いは抱きもしない。いやいや・・・・誰も愛せない。そうじゃないかもしれないと思えてきた矢先でもあるのだが、やはり無理そうだ。誰を失うことも受け入れられてしまう。悲しくないわけでなく、でも、予測が立っているのだ。そう、いつでも可能性を考える。そして結果がその選択しに入っていることがあまりにも多いため、驚けもしないのだ。私は・・・・本気になれない。人の全てを見つめても、人に全てを見せない。ずるい、と思うが、それが私の生き方だ。いつでも、なにを失っても、誰が去っていっても、自分だけで立っていられるようにしておく。体重を預けない、愛を注がない。だから、失っても辛くない。いつだって選択肢に入っているから。どの瞬間にそれが起こってもいいように、いつでも身構えている。だから驚かない。悲しいかな、潜在的に備わっている自営本能なのだ。だから、本気で何かを欲しいと思える人を、本気で失ったことについて悲しんでいる人を、失うことを恐れていつでも神経に愛を注いでいる人を、私は、羨ましいと思う。とても、とても羨ましいと思う。それになれないことは分かっている。なれなくてもいい。でも、羨んでいる。なれなくてもいい。いや、なることは怖い。その結果を恐れて生きて、今の‘私’的生き方があるわけだから。そして、信じられなくもある。何故あれだけ真剣になれるのか。きっと、分からなくてもいいと思っている。分かったときは、そういう生き方をしているときだからだ。

 壁を作っている。だから、なにを失っても怖くない。彼でさえ、いつ側から居なくなってもいいと思っている。それは悲しくないのではなく・・・耐えられるという話なのだ。受けとめられる・・・・必死になれない。非情だと、自分のことを思う。確かにそうなのだ。そのことをまだ誰にも告げていない。告げていいものか、考えあぐねている。人を傷つけることは・・・・主義に反するからだ。それだけはやってはいけない。だからまだ、貝のように口を閉ざしたままでいる。きっとこれでいいのだ。分かってもらえなくとも、大したことはない。このまま生き続けよう・・・・。


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「闇、だな」
「ええ・・・・」
 老人の声が2人きりの広場に響く。いや・・・・正確には‘空間’だろうか。宇宙を思わせるような空間に、デスクの上で腕を組んだ老人と資料を持って佇んでいる女性が浮いている。足場はない、影もない。まるでそこにスクリーンがあるかのように、荒い粒子で2人の姿が描かれている。ある意味空虚で美しかった。
「面白いほどに負の感情を抱えている」
「・・・・・」
 老人が表情を変えずに言葉を続けた。しかし、明らかに彼は楽しんでいた。わずかにあがった口の端がそれを物語っていた。
 女性の方は困ったような顔をして、次の言葉を待っているようだった。
20代後半くらいだろうか。聡明そうな顔立ちと趣味の良いシックな服装。有能な女性秘書といえばしっくりくるような出で立ちだった。
「・・・・・どうなさいます?」
 女性の口が美しく動く。先ほどの困ったような感情は消え失せ、そこには命令を待つロボットのような印象が浮かんでいた。
 老人はそんな女性の姿を見て、眩しいかのように目を細めた。気むずかしい顔が少しほぐれる。この有能な女性を、老人は大変気に入っているようだった。
「さて・・・・君はどうしたい?」
 からかうかのような口調で女性に問う。
 女性はわずかに眉を動かした。明らかに動揺している。まさか自分に意見を求められるとは思っていなかったのだろう。数分考え、重そうに口を開く。
「私は・・・・」
「自分の立場など気にしなくていい。素直に言いなさい」
 言いよどむ女性の言葉を遮って、老人は更に笑みを増した。まるで彼女がなにを考え、なにを言わんとしているのか分かっているように。
 女性は深くため息をつくと、紅い唇をきっと結んだ。この老人の前では、建て前を言っても見すかされてしまう、そう考えたのだろう。彼女の瞳は輝きを増し、なによりもそこには動かし様のない意志が生まれていた。
「私は・・・この子を救いたいのです」
 言い終えたあとも、彼女は全身に張りつめた感情を解こうとはしなかった。自分の意見が老人に刃向かう結果になることが分かっていたからだった。そして口に出してしまった以上、彼女は一歩も引くことが出来なかった。



 世の中には多種多様な人々が住んでいる。それこそ十人十色という言葉がしっくりくる。都会になればなるほどそれは激しくなり、認識の許容範囲を超えてくる。個人間の認識の距離と空間的な距離の間に差が生まれる。それが現代である。
 人の種類と同様、人の職業も今や星の数ほどあると言っていいだろう。第3者からは大差がないように見えても、本人同士は全く別の仕事だと誇りを持っている場合。名称は限りなく似通っているのに、その内容に大きな違いがある場合。人間の社会が、発明するものの仕組みがどんどん複雑になるように、今や職業は全てを認識することが不可能なくらいに枝分かれしてしまっている。その知名度はまちまちであり、そこにほんの一握りの人間しか知らない職業があったとしてもおかしくはないだろう。

 あなたは大きな街の事を何処まで知っているだろうか。有名店の数々、若者たちの笑い声、所々で流れている音楽。そんなものはほんの1部にすぎない。いや、それでは一番表の部分しか見ていないのである。
 いつも通る大通りではなく、一本横にそれた道。そこには華やかさの影とも呼べる空間が広がっている。道幅の狭い道。車がすれ違うことさえ出来ない。道は吐き出されたガムなどで薄汚れ、日の光さえも当たっていない。町並みはこじんまりとし、歩く人も心なしか縮こまっている。様々な顔がある。様々な人間関係がある。若い娘なら目を背けたくなるような店、黒光りする車の止まる事務所・・・。まさに、’人間の巣窟’がそこにある。軽はずみな気持ちで足を踏み入れられない何かが。
 そんな大きな街の裏通りの一角に、”しろくまビル”と名乗る建物がある。外見は灰色のひび割れたコンクリートせいで、入っている企業もぱっとしない。何がどうなって”しろくま”なのか、未だに謎である。しかし、ここにはとある秘密があった。ここを借りている人々でさえ知らないような秘密が。それは・・・このビルのエレベーターがあの’空間’に繋がっているということだった。しかるべきボタンを押すと、それは起こる。エレベーターは急速に加速を始め(本当は加速していないのだろうが、それくらいの重力がかかる)、ある瞬間自分が中空に放り出されたような感覚を味わう。そして目を開くと・・・あの’空間’が広がっているのだ。



 その言葉を聞いて、老人は更に微笑んだ。しかし、その笑みは一瞬にして後ろに追いやられ、厳しい表情が変わりに宿った。
「・・・本気なのだね?」
「ええ」
 女性の声が震えている。
「・・それが規約を壊すことだとわかっていてもかね」
「・・わかっています。でも・・見捨ててはおけないのです。なぜなら・・」
 女性はいったん言葉を止めた。口に出して良いものか、考えあぐねているのだろう。
 老人は何も言葉を発しない。ただ穏やかな目で女性を見つめていた。
「なぜなら・・・この子は私だからです」
 女は大きく息をついた。これは最大級の秘密だった。仕事に私情を入れてはいけない。それは、彼女自身よくわかっていることだった。違反して追放されたものを見てきたし、規約を守り続けることが彼女の信念でもあった。
「・・・やりなさい。あとのことはなんとかしよう」
「あ・・・ありがとうございます!」
 もっと、反論なりされると思っていたらしい。女性は心底ほっとした表情を浮かべた。
「では・・失礼します」
「ああ・・・がんばりたまえ・・・・」
 女性の映像が消える。繋がる空間からほかに移動したのだろう。この’空間’は様々なところから来られるようになっている。それは、各々が個人情報を知ることなく仕事を行う為だとも言われている。真意はわからない・・・。
 老人は大きくため息をつくと、デスクの上のスイッチを押した。老人の映像が荒くなっていく。
「それも定めか・・・・時の使者よ・・・・・」
 映像は完全に消え、’空間’に在るものは闇のみとなった。

                   〜つづく〜