実験作品 『正常な人』



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投稿者: 柏木耕一(旧・日光) @ p19-dn01kuki.saitama.ocn.ne.jp on 97/9/14 20:49:21

 これを読む全ての人達へ。
 これはあなた達が書いたものである。
 何の覚えが無くとも、これはあなた達の作品である。
 それを忘れないで、読み進めて欲しい。
僕が言いたいのは、それだけだ。
 物語は、彼が街を彷徨い歩くのに疲れ始めた、その時から始まる……。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 僕は疲れ果てていた。
 崩壊した街並み。瓦礫は道路を埋め尽くし、血染めの髪を振り乱した人々が、何の目的もなく廃墟を闊歩する。涙の匂いが空気に混ざり、大地は冷たい色で僕を見つめる。
 僕は一人、使い道の無くなった学生鞄を握りしめ、ふらふらと街を彷徨っていた。
右手の指が一本、無様に折れて、ぷらぷらとぶら下がっていた。第一関節と第二関節の間に、必要のない関節が増えている。ずきずきとした痛みが、そこから右耳の裏辺りかけてを走り回る。もう僕の思い通りに動いてはくれない、無駄にひっついているだけの、邪魔っけなフィギュアのようなものだ。
 歩いていればすぐに、誰かが誰かを殺していたり、或いは犯していたりするのが見える。殺される方は満更でも無さそうな表情で頭を割られ、腹を割かれ、両の脚をいっぺんにひっこぬかれたりしている。犯されているのは、場末のバーのママみたいな厚化粧の女から、まだ生理も来てないような少女まで様々だ。時には男が男を、女が女を犯し、老人が赤子を、少年が老女を犯していたりもする。しかし彼らは、皆一様に、悦楽の表情を浮かべてよがり声を上げている。誰もその状況をおかしいとは思っていない。誰も……。
僕だけだ。
 僕だけが、唯一正気を保っていられている。
 いつからだろう、この世界がこんなになってしまったのは。
 いつからだろう、誰もが狂気に捕らわれてしまったのは。そんなに前ではなかったはずだ。一年前? 一ヶ月前かもしれない。いや、意外に一週間前、一日前って可能性だってある。
 ともかく、世界は変わってしまったのだ。何もかもが壊され、新たに迎え入れられたものは『狂気』……。
 世界中の全てがそうなってしまったのか、僕には知る術はない。テレビもラジオも、今では単なる残虐番組か、もしくはポルノしか映し出してはいないからだ。ニュースキャスターとカメラマンは番組最中にセックスを始め、そして他のスタッフがそれを止めようとして、コトの途中の二人を殺してしまう。平然としているスタッフを、今度はスタジオに乱入してきた一般人が、どこから持ち出したのか、薄汚れた手斧でそいつの頭をかち割る。血飛沫がカメラのレンズを赤く染め上げる。ブラウン管からは、別のカメラマンの馬鹿みたいな、しかし夜中に吹き鳴らしたフルートみたいな、不快な音域で響く笑い声が垂れ流される。永遠にそれらは繰り返され、やがて消えた。
 海外の番組を見ようとしたが、無駄だった。衛星は既に使用不可能にされているらしく、画面には砂嵐が映るばかりだった。
新聞は発行されていない。記者がいないのだろう……いや、いるにはいるが、まともに働く気がないに違いない。
 僕は一人だ。この世界に残された、たった一人の『正常な』人間だ。
何故だろう。何故僕だけが助かったのだろう。他のみんなが狂ってしまっても、何故僕だけが正常でいられるのだろう。
 その問いに答えられる人間はいない。答えてやろうと思う人間もいないだろう。

 ……いや。
 人間など、もう、ここには存在していない。
ここにいるのはケダモノだ。本能と欲望を剥き出しにした、醜いケダモノどもだ。
 ここにいる人間は、僕だけだ……。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 またここに戻ってきてしまった。
 無粋な鉄門扉。壊された塀。学校を囲む垣根は切り裂かれ、あるいは破られている。校庭では何人もの生徒が、互いの肉を貪り食い合っている。生きたまま食い、食われていく苦痛が、彼らをさらなる狂気へとかき立てている。校舎の窓はことごとく割られ、何分かに一度の割合で人が落下している。それはさながら地獄絵図のようであった。
 しかしその地獄に、僕はまた戻ってきた。
 全てが変わってからずっと、僕は疲れる度にここに足を運んだ。
別に、それほど学校が好きだったわけじゃない。成績はまあ、中の上といった具合だったし、特別運動ができるわけでもない。だからといって取り立てて嫌いというわけでもなかった。居心地の良い古本屋みたいな……そんな捉え方をしていた。
 そんな僕が、今はここを唯一の拠り所としている。ここ以外の場所で、僕の心を癒してくれる場所など存在しないと考えている。 
 どうしてだろう? 自問しつつも、昇降口から校舎に入り、土足で廊下に上がる。教室からは悲鳴と嬌声だけが、絶えることを知らないかのように流れ出てくる。僕はできるだけそれらを無視しようと、必死になって耳を塞いだ。音を聞かないようにするのは簡単だ
──『自分の耳は聞こえない、自分は何も聞いていない』と、心の中で念じ続けていればいいだけの話だ。だが、頭の中に浮かぶ擬音まで無視することはできない。自然復唱してしまう──つまりは、音を無視するなんてできっこないということなのだが。
 僕は階段を登ると、自分のクラスに向かった。僕の安息の場所……どうしてだろう、こ
れほどまでに僕があそこまで帰りたがるのには──どんな理由があるのだろう。
……はっ。
理由……馬鹿馬鹿しい。
 あそこには、狂気が満ちていない……ただそれだけのことだ。
 どこからか、ブゥーン、ブゥーンという、蠅の羽音が聞こえた。

 鬱陶しい……蠅の、羽音が……。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「お帰りなさい、ケイ君」
 教室には先客がいた。それも、僕の探し求めていた……。
いや。
 正気の人物か? 本当にそうなのか?
「どうしたの? 何をぼーっと立っているの?」
 先客の女生徒……一年先輩の前園桜さんは、訝しげに目を細めた。
艶やかな、長い黒髪。僅かに垂れた、大きめの瞳……まだあまり成長していないバスト……全体的に細いからだ。理知的な雰囲気と母性的な優しさを併せ持つ、僕が密かに好意を抱いていた、僕の憧れの人。
 この人なら……この人なら、狂気に捕らわれずに済んだ……それも考えられないことじゃない。意志の強い人だった……考えられなく、ない──。
「もう、何でそんなに疲れたような顔をしてるの? 何かあった?」
  ──何かあった……何があった?
 頭の中が、混乱しだしている。
 ちょっと待て。何か変だ。 
「ねえ、ほんとにどうしたの? 何で一言も話さないの?」
 おかしい……変だ!
「疲れてるの?」
 変だ! おかしい!
「何で!」
 僕は喉の奥から声を絞り出した。
「何であなたは、そうやって平気でいられるんだ!」
「だって、別に……おかしなことじゃないでしょ?」
「おかしいんだ、それが!」
 先輩まで──! 
「狂ってるんだ、みんな……おかしくなったんだ! 世界中全ての人が、おかしくなっちゃったのに──みんなそれをおかしいと思わないんだ!」
「それはみんなが狂ってないからよ」
 先輩の唇が、三日月のように歪んだ。泣き出しそうな薔薇に似た表情……。
「おかしかったのは、今までのみんななのよ。理性……それによって抑圧された世界は、到底正しいとは言い難い外観と内面を有していた。そしてその間違いを隠すために、みんなはどんどんおかしくなっていったの。理性の殻、常識の檻をより堅牢にしてね。
でもそんなことを続けていたら、それこそ狂ってしまうわ。みんな疲れていた……自分を隠すことにね。
 そして……つい最近よ。みんなが『もうやめよう』って言って、本当の自分をさらけ出
したのは。狂ってるのはみんなじゃない──むしろみんなは正しくなったの。
 狂ってるのはね、ケイ君、あなたなのよ?」
「嘘だ!」
 狂ってるのは、みんなだ──くそ、こんな狂人の言うことになんか耳を貸すんじゃなかった! こいつの言葉が信頼できるわけじゃない──こいつも、外であへあへ喘いでるケダモノとおんなじなんだ!
「あなただって、ちょっと空想してみたことがあるんじゃない? 好きな女の子相手に。服を引き裂いて、ブラジャーをむしりとって、豊満なバストを揉み潰してみたいって。スカートを脱がして、パンティーを破り捨てて、濡れてもいない幼い女陰に、熱くそそり立
った男根を突き刺してみたいって。それは当然のことなの──誰にでもある欲望よ。みんな今まではそれを隠していきていたの……それに疲れたのよ。みんなは今、正直に生きている……とても正しい生き方をしている」
「うるさい、黙れ! 黙れ! 黙れ!」
 とても耐えられない……憧れの先輩だったんだ! 物静かで、優しくて、本が好きで……いろいろ気の利く人だった。図書委員の仕事が終わった後に、間違って揃えてしまった棚をこっそり直してくれるような……僕が先生に「よくやった」って言われた後に、こそっと「私も手伝ったんだよ」って教えてくれるような、素敵なひとだったんだ!
モウタエラレナイ……!
「あなただって、考えたことあるでしょう? あの野郎憎たらしいなとか、田中の野郎死んじまえとか。
 ナイフで腹を突き刺して、ゆっくりゆっくり時間をかけて切り裂いて……黄色い脂肪が床に垂れる。ひくひく動く獲物の瞳に指をねじ込む。ぷちゅって音がして、白っぽい液体が溢れてきて──頭の中で指を鉤型にして、一気にひっこ抜く。でも獲物は悲鳴を上げないの。だって一番最初に、石で喉を叩きつぶしてあるから。漏れ聞こえるのはひゅうひゅうって音だけよ。安心して遊びが続けられる。ロートを口腔に突っ込んで、そこからゆっくり、ゆっくりと塩酸を垂らしていく……焼け付く喉。塩酸がなくなったら、ロートの替わりに手を突っ込むの。そして食道を裂いて、胃を破って、内臓をずるずると引きずり出して──ようやく獲物が息絶える。ね? 想像してみたこと、あるでしょ? このぐらいのこと」
「うるさぁいぃ!」
 僕はドアを蹴飛ばすと、廊下に飛び出して、教室から逃げ出した。
 もう、耐えられない……!
あんなのは先輩じゃない……くそ! 狂ってしまった……優しかった先輩が、狂って……おかしくなっちまった!
くそ! くそ! くそ!!
畜生!!

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 僕は一人、あてもなく街をふらついていた。もうどうでもいいような気がした……全てがどうでもいいような、そんな感じ。
 僕もまた、狂ってしまいそうだった。
 どろりとした時間の中を、何の目的もなく漂っている。流れに身を任せてしまえば、すぐにでも楽になれてしまうに違いない、甘美な流れ。
 ふと──周囲の風景が、闇色に彩られていった。うなじのあたりに、ちりちりとした痛みが生まれる。それすら心地よくなるほどに、狂気の奔流が体を満たす。
 駄目だ──。
僕の中の、もう一人の自分が、必死で抑制をかける。駄目だ、駄目だ──おまえもあんなのになりたいのか、おまえはマトモな人間ではなかったのか──しっかりしろ、気を確かに持て!
 しかし僕の中の、一番深いところでは、既に敗北を認めている僕がいた。闇の双腕に抱きすくめられ、身動き一つとれない僕が。
錯乱した太陽が、破片となったアスファルトに光を投げかける。壊滅的な音楽がいたるところから漏れ聞こえる……悲鳴と嬌声の狂想曲。僕はそれらの音を耳から脳髄に通しながら、ただ足を投げ出すように歩き回っていた。
 僕の中の世界があまりに脆いことを、今この瞬間、僕は初めて知ったのだった。僕という存在全てを賭けても、この究極の狂気に抗う術はないように思えた。先輩ですら打ち倒し、ひれ伏させ、犯し、傷つけたこの狂気には……。
 おお──おお、凍れる炎、恬然たる焦燥、暗褐色に光り輝く朝焼けの星々よ──。
深淵に……飲み込まれ……。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「ちょっと──ちょっと、ケイ君! 起きて! 起きなさい!!」  あたしは、叫んでも目を覚まさないケイ君の頬を、強く三度打った。
「──うっ、うああああああああ」  ケイ君はそんな悲鳴をあげると、ベッドから跳ね起きた。汗でぐっしょりと濡れたYシャツが、体にぴったりと張り付いている。それをタオルでぬぐってやりながら、あたしは彼に言葉をかけた。
「どうしたの? あんなにうなされて──悪い夢でも見た?」    「あ、ん、……いや、大丈夫です」
 ケイ君の返事はひどく短く、そして嘘をついていることが明白だった。動揺があたしにまで伝わってくる程、彼はひどく脅え、そして恐れていた。
 彼が何を恐怖しているのか、あたしにだってわかっている。
 ケイ君が恐れるもの……あたしが恐れるものは、狂気だ。免れ得ぬ狂気の浸食。伝染する精神崩壊……人格と理性を打ち砕き、獣的な本能に従うしかなくなる。
 ちょっと前までは、こうじゃなかった。あたしはいつも通り出勤して、職員室での退屈な会議を聞き流し、保健室で無意味にぼーっとしていた。暖かい日差しが窓から差し込んでくる部屋で、あたしはうとうとしていられたのだ。ケイ君にしたってそうだろう。朝起きたら顔を洗って、朝御飯にトーストを食べて登校して、授業を受けて部活に出て下校して……。
 何の面白味もないが、平穏な日常。輝ける停滞時間。
 その全てが、一瞬にして破壊された。
 あれがいつ頃の出来事だったのか、ケイ君にもあたしにもわからない。ただ突如として破滅は訪れた。道行く人達は互いに殺し合い、奪い合い、犯し合い……隠されていた人間の本性全てを、まるでお菓子を取り上げられた子供が憂さ晴らしをするみたいに、誰も彼もが世界に叩きつけた。
 そしてその結果がこれだ。感情も何もない、ただ欲望だけに忠実な肉人形の群れ。血みどろの街並み、精液の匂いが混じった空気。
 あたしには到底慣れることのできない、狂気の世界が完成したのだ。
「……先生。僕の指、大丈夫でしょうか?」
 言われた瞬間意識を表層に押し戻し、ケイ君の方を向く。
「大丈夫よ。きちんとした医療器具が残っていたのが幸いしたわね」
 あたしは周囲をぐるりと見渡した。もとは整形外科の病室だったそこは、荒らされてはいるものの、それなりに整理されている。薬品も何個か残っていたし、何より包帯とギプスが残っていたのは有り難かった。痛み止めも何とか使い方は知っていたし、ケイ君を助けることができたのは、本当に喜ばしい。
 看護婦になろうとして、しかし対人恐怖症のケがあるあたしは、それを諦めざるを得なかった。でもどうしてもやりたくて、無理して看護学校に入った。そしてそこで完膚無き
までに叩きのめされたあたしは、長い間暖めた夢を捨てた。でもまだ未練があって──あたしは養護教諭資格をとるため専門学校に通い、保健医ならば人と接する機会もそれほどないだろうし──そう思って、保健医になったのだ。
そんな不純な動機でなった職業だから、あんまり気合いも入らなかった。怪我をしたら適当に治療して、気分の悪い生徒は適当にベッドに寝かしておいた。それで事足りたのだ。 あたしは満たされなかった。
 でも今は違う。あたしはケイ君を救ったのだ。ゴミために倒れ、息も絶え絶えだった彼をここまで運び、折れていた指の治療もした。こんなときに不謹慎な話だが、不思議な充足感があったのも確かだ。
「……先生、ここ、どこなんですか?」
「中田病院よ、学校の近くの。今はまだ大丈夫みたいだけど、すぐに移動した方がいいかもしれないわね。さっきここに入ってくる連中を見たもの」
「──そうですか」  ケイ君はそれっきり押し黙ってしまった。余程ショックなことがあったに違いない。
「……無駄ですよ」
「え?」
 ケイ君の目が濁っていた。リノリウムばりの白い壁を睨み付けるそれは、焦点を結んではいない。夜の街並みに輝いていたネオンのように、確かに在るのだが、何の意味も含ん
ではいない──そんな目だ。
「無駄ですよ、逃げ出したって。先輩だって捕まったんだ。あれから逃げ出すことなんてできやしないんですよ。無駄なんだ……だってそうでしょう? あれは僕達の内にある僕達が鍵をかけて閉じこめていたものが溢れだしたものなんだ。僕達の中にあるものから逃げ出すことなんてできやしない──たじろぐことすらなく、ただ真っ直ぐに見つめた機械的な先輩の瞳は何も映してはいなかった。誓って言うけど先輩はあんな人じゃなかった。きちんとした生命の息吹で以て、毎日静かに暮らしている……冒涜的なものなんか寄せつけもしなかった。でも今の先輩は違うんです。ひたすらに狂気を追い求めている。廃墟の学校でただ一人穏やかな笑顔で虚無を見つめていたじゃないですか。だから無理ですよ。どんなに逃げようとしたって無駄なんだ。無駄なんだ。無駄……」
「ケイ君!」
 再び彼の頬を打つ。渇いた音が病室一杯に鳴り響いた。
ケイ君はしばらく呆然としたまま、あたしをじっと見つめて(ひょっとしたら睨んでいたのかもしれないが)いた。二、三分ほどそうしていただろうか? 彼の瞳が焦点を結ぶ。
「……すみません。ちょっと疲れちゃって……」
 ケイ君は俯いて黙りこくってしまう。
「疲れてるのよ。少し寝れば良くなるわ」
「……はい」
 ごろんとベッドに横になるケイ君。あたしは彼が背中を向けたのを見ると、「ここにいて。何か食べ物がないか、探してくる」と言葉をかけて、そこを去った。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 僕は疲れていた。おかしい──頭がまともに働かない。記憶もあやふやだった。先輩と会って話した後、僕は何をしていた? 何を食べ、何を聞き、何を見た? 全てが忘却の彼方に追いやられてしまっている。
 僕はベッドから起き上がると、ボタンの千切れたYシャツを羽織った。ここを出ていかなければいけない。先生には悪いけど、今の僕は危険だ。何をしてしまうか、わかったものではない。先生は僕がいなくたって一人でやっていけるだろう。先生は僕を助けてくれた──その先生に危害を加えるような真似だけは、何としてでも避けなければならない。
 先輩の狂気に犯された僕の精神もまた、壊れかけているのだ。
 護身用に、手近に転がっていたペーパーナイフをポケットに突っ込むと、足音をできるだけたてないよう注意しながら病院を出た。途中病室から悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、今の僕にはもう、耳を塞ぐ気力すら残ってはいなかった。
 病院から出るとすぐに、駅前道路にぶつかる。もっとも、今は車なんて通っちゃいない。ただ延々と続く乱交場がある、それだけだ。ヤっている奴らの中には顔馴染みもいたし、全然知らない赤の他人もいた。服を着たままの奴、目隠しをした奴、縄で縛られた奴。糞尿にまみれた奴、頭が半分欠けている奴──様々だ。奴らに共通しているのはただ一つ、頭がおかしいということだけだった。
 重い足を引きずり、ある場所を目指して歩を進める。そこに、世界をこんなにした原因を知っている人がいる。
 僕はその人に会うために、そこに向かった。
 ふと気が付くと、陽は西に傾き、生ぬるい風と血のような赤を空にぶちまけていた。
 血の赤だった。
 空はただ、血を流していた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「──おかえり」
 その人は、僕がここに来るのをわかっていたかのような口振りでそう言った。でもそれは僕も同じだった──先輩が、ここに……学校にいることはわかっていた。何か根拠があるわけじゃない。だから、何故わかったのかと理由を聞かれれば、返答に窮してしまったかもしれない。強いて言うなら、先輩は学校がよく似合うから、だろうか? とにかく、先輩は決して学校以外にはいないだろうという確信めいたものが、僕の中にあったのだ。
「わかった? 本当に正しいこと」
「まだ……わかりません。ただ一つ本当に言えるのは、やっぱりみんな間違ってるってことです」
「どうしてそう思うの?」
「僕がそう思ったからです」
 先輩は目を三日月のように歪めると、あどけない童女のようにくすくす笑いをこぼした。心底おかしそうな彼女を、僕はただじっと見つめていることしかできなかった。
「ケイ君が正しいと思うなら、それは正しいことよ」
「……」
「みんな間違ってるの。でもみんな正しいのよ。正気も狂気も、明確な区別なんてない。私は間違っててケイ君は正しいけど、その逆だってあり得るんだから」
「僕は禅問答をしに来たわけじゃない」
 教室が赤く染まっている。机も椅子も黒板も、──そして先輩も。
「僕が聞きたいのは、何で世界がこんなになったかっていう原因です」
「私が知らないって言ったら?」
「そんなはずはないと思ったから、ここまで来たんです」
「……ふうん。ケイ君って意外と自信家なんだ」
 先輩の唇の端が持ち上がり、コケティッシュな笑顔を作る。オレンジ色の絵の具が塗りたくられた教室の中で、僕と先輩は、互いの視線を交錯させた。先輩の全てが血の色に染まっている。偽物の血を流す先輩は、ただ綺麗だった。
 外から流れ込む絶叫と哄笑が、僕達の耳に侵入してきた。
 先輩は黙って僕を見つめている。縛るでも射抜くでもなく、ただ見つめている以上の意味を持たない視線。
「……こうなることを、望んでいたから」
 先輩は突然唇を動かした。
「誰もがこうなることを望み、そしてその通りになった。私も、あなたも、世界中のみんながこうなりたいと思っていた。
 ちょっとしたきっかけが始まりだった。ある一人の抱えきれなくなった狂気が、他人に伝染したの。だってみんな、大小問わず狂気を持ち合わせていたものね。大きな狂気に触発された別の狂気が解放されて、次々とそれは伝染していったわ。狂気は急速に伝染していき、私達が普段抑圧している本当の心を露わにした。私達全員、狂っちゃったの。
 でももう狂ってないわ。だって今は世界中のみんなが狂ってるんだもの。だとすればそれは狂気じゃないでしょ? みんなおんなじであることが正気なんですものね。だから私達はどこもおかしくないの。
 でもケイ君が私達のことを間違ってるって言うなら、私達は間違ってるのかもしれないけどね」
「先輩が、何を言っているのか……全然わかりません」
「それでいいの。だってわかったらあなたは間違ってることになるから」
 口元に手を添えて、くすくすと笑い続ける先輩。
 やはり無駄なのか? 狂気を癒すことは不可能なのか? ほんの僅かな正気のきらめきさえ、再び先輩の大きな瞳に浮かぶことはないのか?
 黒い瞳が僕を捕らえて離さない。縛らない視線。ただ、見つめられている人間に、自らを戒めさせてやまない視線。縄を投げかけるのだ。その縄は決して絡まない。僕達が自ら、己の体を縛ってしまうのだ。そうさせる力を持っている瞳なのだ。
「ケイ君」
 髪をかき上げて、先輩。
「何ですか?」
「最初の一人」
 先輩の指は、真っ直ぐに僕の方を向いている。
「最初の一人」
「……何を言っているんですか」
「あなたが最初の一人よ。あなたが抱えきれなかった狂気が、全てをここに導いた」
 僕の、狂気?
「原因はあなた。あなたの狂気が感染したのよ」
「僕は狂ってない!」
「そう、だってあなたは狂気を抱えきれずに、外に捨ててしまったんだものね。その狂気が他人の狂気を触発したの。……ねえケイ君、私あなたを責めてるわけじゃないからね。むしろ感謝してるの。だってあなたが正しかったんだから」  
「……あなた達は、間違っている……
「でもあなたの生み出したこの世界は正しいわ」
「全てが間違っているんだ!」
「だったからあなたも間違っている」
 果てしない問いと答え。禅問答とも言えぬ罵り合い──狂気のなすりつけ。
僕はふと、教室が赤から黒に染め変えられていくのを感じた。それと共に浮かび上がる恐怖……月が浮かび、全ての狂気が夜の闇に混じり、溶け込む。
 その中で僕と先輩は、たった二人、夜の闇に浮かんでいたのだ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 ここはどこだろう? 何故僕はこんなところにいるのだろう? ……学校にいたんじゃなかったのか?
 何故か、僕は独り、中田病院の前に立っていた。夜の帳に包まれた白い建物は、どこか化け物屋敷じみていて、恐れ以外の感情を抱かせることをよしとしない。もとから病院と
は薄気味悪いところだが、ここは──それすら通り越し、吐き気すら催させる雰囲気に包まれていた。
僕はいつここに来たのか? 学校からここまでの記憶がない。僕は、どうした?
 不安を隠すため、軽く自分の拳を握ってから、とにかく病院に入ることにした。何だかとても疲れていた……どうしてかはわからない。何に疲れているのかさえ、わからないのだから。
 と、その時──。 「アアアアアーッ」
 怪鳥のような叫びが、耳をつんざいた。
 何とはなしに空を見上げた。病院の屋上から、何人かの人間達がこちらを見下ろしてい
る。そこから、まるでヒトデみたいに四肢を大きく広げた何かが降ってきて──コンクリートの上でひしゃげ、潰れ、バウンドして──無惨な肉の塊に化けた。
腕があり得ざる方向にねじ曲がっている。足は既にミンチ状になり、頭や胴体は言わずもがなだ。一目見て死んでいる……生きていられるはずがない。見たこともない男(なのだろう)が、醜いオブジェとなって、僕の目の前に転がっている。
「ケイ君、驚かないんだ」
 確かに驚いてはいない……この事件にも──先輩、あなたにも。
「そうよねえ、ケイ君は正しいんだものねえ」
「正しいも正しくないもないですよ。死んだんだ。人が死んだ。動かなくなった。それだけです」
「その考え方は間違ってるんじゃないの?」
「僕が殺したわけじゃない! 僕は間違ってない
「……困った、困った。ケイ君が怒っちゃったよ」
 くすくすと笑い続ける先輩を無視して、僕は病院の中に踏み込んだ。先生が心配だった……僕は先生を一人、ここに置き去りにしたのだ。
「死んでるんじゃない? ここにずっといたなら」
 何故先輩が僕の心を見透かしたような質問をしてくるのか、僕にはわからない。ただ言えるのは、不思議と先輩の言葉が、前ほど気に障らなくなったということだけだった。
「それでも迎えに行きます」
「死ぬよりもっとひどいことになってるかもよ?」
 僕は後から付いてくる先輩を振り返った。目を細める先輩が、どうしてだろう、とても悲しげに見えた。
 先輩が言っているのは、つまり……。
「ひょっとして先生が狂っているかも、ってことですか」
「そうかもしれないわね」
「馬鹿らしい」
 先生が狂う? そんなはずはない。だって先生には、全くその兆候はなかったじゃないか。この世界で何人残っているかは知らないが、とにかく数少ない正常な人間だったのだ。その先生が狂うなんてことは、到底有り得ない。
「そうかなあ」
 先輩の唇の端が、にゅっと持ち上がった。
 そして僕はまた──。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

助けてくれ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 そこには幾つかの人影があった。男が沢山いる……そして、女が一人。
 男は全員素っ裸だった。醜いモノを晒し、へらへらと涎を垂れ流しながら、女を犯している。
 そしてその女もまた……。
「あらあら」
 先輩の素っ頓狂な声が、ひどく無遠慮に僕の耳を叩いた。
 それはどうやら女も同じのようだった。こちらをちらりと見やり──そしてその目が大
きく見開かれる。驚愕に凍り付いた顔は、精液でべたべたに汚れていた。

 あれは誰だ。

「先生ったら、お盛んなんですねえ」
 先輩がくすくす笑いながら、さもおかしそうにそう呟いた。病室の、開け放たれた窓から、風が吹き込んでくる。それは僕に向かって、獣的な臭いを叩きつけた。
「ね、ケイ君。びっくりよね。先生ったら、一本、二本、三本……はは、沢山沢山男の人のをくわえ込んでる。手で握ってもいるわね。きゃはははははは……」
──おまえも同じか、メス豚め──。
「た、助けて……」
 女は男根を吐き出すと、虚ろな声音で助けを乞う。快楽に溺れた、虚ろな声音で。
 その声で、僕に助けを求めるのか。
「その声で……」
「ケ、ケイ、君、助け……て」
「そんな汚い声で、僕の名前を呼ぶな!」
 何てこと──何てこと。
 メス豚め、おまえもか。おまえも狂っていたのか。普通なフリをして僕に近づいたのは、僕にその狂気をうつそうとしたからだな。何て汚らわしい女だ。僕の前ではいかにも正気ですって顔をして、いざいなくなるとこれだ。淫乱め。男をそんなにくわえ込んで、まだ足りないのか? 僕をも求めるのか。ふざけやがって。
今やっとわかった。何が正しくて、何が間違っていたのか。
 僕は騙されていたのだ。そして僕は間違っていた。この豚が、偽の『正気な人間』像を僕に植え付けた。騙していたのはこの豚で、騙されていたのはこの僕だ。間違った目で見たこの豚が正しくみえてしまったのだ。
「ね、ケイ君。所詮こんなものよ。この人、平気なフリをしてたけど、実際はとんでもない……単なる淫乱のスケベ女なのよ」   
「──そうですね」  先輩がとても素晴らしい女性に感じられる。聖母とはまさしく、彼女のことを指しているのかもしれなかった。
 真実を見る力。真実を受け止める力。他人の過ちを受け入れる、心の強さ。
 先輩は完璧だった。己の狂気と、他人の狂気すら受け止めながら、まだ正気でいられるのだから。僕の間違いすら受け入れたのだから。
「それにくらべて、このクソ女ときたら」
 僕はペーパーナイフを取り出すと、女に群がっていた男の一人の眼窩に突き刺した。悲鳴すら上げずに、そいつは大量の血を流しながら床に倒れ込む。びくびくと何度か痙攣したが、しばらくするとそいつはぴくりとも動かなくなった。
 僕は無抵抗な肉人形共を、ペーパーナイフで突き殺していった。夏炉冬扇と言うではないか。あっても意味のない存在なら、壊してしまうしかないのだ。
 二人目は口の中に手を突っ込み、食道を圧迫してやった。腕をふり回し抵抗してきたので、遊ぶのをやめて、心臓にナイフを突き刺してやった。肉を裂く感触が、刃越しに掌に伝わってくる。
 三人目と四人目は、黙って腰を振り続けているだけだったので、処分するのは簡単だった。後ろから、耳の穴の中にナイフを突っ込んでやる。死はそれが脳まで届いた時に訪れる。わざわざ殺してしまうのも何なので、慈悲深く助けてやった。床でのたうち回っているが、気にするほどのものでもない。
 五人目は先輩が殺していた。さすが先輩だ。僕の考えていることなんかお見通しってわけだ。花瓶で禿げた中年男の頭を殴打し、その破片で男の腹を割いている。その様子は、幼稚園で砂遊びをする少女のようで、見ていて微笑ましい。
 六人目は僕が殴り殺してやった。多少手が痛んだが、別にどうでもいいことだ。顔をぱんぱんのバレーボールみたいにふくらませ、そいつは絶命した。
 そして……。
「た、たす、たすけて」
 女は全裸で助けを求めた。どうやら苦しいらしい。どのくらい犯されていたのかは知らないが、かなり衰弱しているらしかった。体中をべたべたにして、僕達から逃げるように後ずさる。助けて欲しいと言っているくせに、何て態度だ。やっぱり豚は豚だ……人間様に及ぶべくもない。ましてやこいつと先輩となんて、較べることすら愚かしい。
豚はのろのろとした動きで病室の隅に隠れた。だがまあ、隠れたと言っても、完全に姿を消すことなどできはしない……ベッドの影でぶるぶる震えているだけだ。
 屠殺されることを恐れるんだな、知恵のない豚でも。
「ケイ君、やっちゃえ、やっちゃえ」
「はい」
 先輩の言葉は、こんな汚らわしい場所でも美しく響く。月明かりに照らされじっと佇む先輩の姿は、例えようもなく綺麗だった。
 僕はペーパーナイフを握りしめると、大股で豚のいるところへ歩み寄った。
「出てこいよ」
 自分でもびっくりするほど、冷たい声。豚が脅えてその顔をひっこめる。
 馬鹿だ。意味のないことをして、僕を苛つかせないでくれ。馬鹿は馬鹿なりに、大人しく殺されりゃいいんだよ。
──ナイフを、振り下ろす。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「泣いてるの?」
 その先輩の言葉で、ようやく僕は自分が涙を流していることに気付いた。溢れる雫は何故か止まることなく流れ続け、手でぬぐうと腕にまで伝う。
 僕の足下で、一匹の豚が死んでいた。体中から血を流し、醜い屍と成り果てている。
 それを見て、僕は泣いたのだろうか?
「悲しいの? ケイ君」
「そんなことないですよ。これで、先輩と二人っきりなんだから」
 そうだ。これで正常な人間は、僕と先輩だけになった。他の奴らは全員気が狂ってる……先輩と二人きりで、これからは生きていくのだ。
 それなのに何故か、奇妙なほどの喪失感が、全身を駆けめぐっていた。砂漠のど真ん中、目の前で水の入った壺をひっくり返されたような……たまらない虚無感。
「悲しいのなら、私が慰めてあげる」
 先輩の言葉が、その虚無を埋めてくれる。僕にはもう先輩しかいないのだ。
「ケイ君は正しいことをしたのよ。ケイ君が望んだ世界で、でもケイ君の望み通りにならない存在なんかいらない。ケイ君を裏切るような奴なんていらない。私があなたの側にいてあげる。あなたは正しいの。正しいことをしたのよ」

 本当か? 何かを忘れていないか?

何か、大切なものを忘れていないのか?

「──そうだ……」

 思い出した。

「先輩、よく考えたら僕達、夕御飯食べてませんよ」

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 あなたが真に望んだものが、ここに書かれている。
 だからこそこれは、あなた達の作品なのだ。
本当の、最初の一人は