物事をありのままにみる



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投稿者: 錦太郎 @ sutkmax1-ppp12.ed.kagu.sut.ac.jp on 97/9/08 00:17:20

In Reply to: 人生は苦なり(長文)

posted by 錦太郎 @ sutkmax1-ppp02.ed.kagu.sut.ac.jp on 97/9/05 02:23:59

真に人生をまじめに考え、生きている人は,一度(ひとたび)「死」ということが
視野に入ったとき当然死にたくないと思うはずです。

「なぜ死ぬのにあくせくするのか?」「なぜ崩れるとわかっている幸せ(楽しみ)を
苦労してまで求めるのか?」このような疑問はわいてきて当然だと思います。
一生懸命生きているんですからね。

 そうなれば、人生は苦しみとしか考えようがないではありませんか。
では、何のために生きるのか?何のために苦労するのか?これが一番重要な問題
になってきます。

 人生を考える上で一番重要になるのが物事をありのままにみるということです。
これを仏教では「正見(しょうけん)」といいます。曲がった見方をしないで、物事をまっすぐに
見るということです。

 この「正見」ということについて、面白いエピソードがあります。
一休と蓮如のやりとりなんですけど・・・

 ある時一休がある立て札を松の木の前にたてました。その立て札には、
「この木をまっすぐに見ることができたら、その者に金百貫を与える」という
ものでした。
 この松ノ木はグネグネに曲がっている木でした。
 たちまち人が集まってきてどうにかしてこの木をまっすぐ見ようとしました。
ある者は、斜めからその木を見て,又ある者は木に登って上からその木を見下ろして
みましたが、まっすぐに見ることができませんでした。
 そこへ蓮如がやってきて、こう言いました。
「オレはまっすぐに見ることができた、早速一休の所に行って金をもらってくる」
こう言って一休の所へ行きました。
一休は蓮如が来たのを見て
「おぅ、蓮如か、どうした?」
と聞きました。
 蓮如は
「松ノ木をまっすぐに見たぞ、早く金(きん)をくれ」と言いました。
「おいおい、立て札の後ろを見てこなかったのか?」と一休は言いました。
蓮如はそれを聞いて立て札を見に行きました。
そして、立て札の後ろには「ただし、本願寺の蓮如はのぞく」と書かれていました。
 
 一休はたいへん賢い人でしたが、蓮如にはことごとくしてやられていたんですね。
ですから、立て札にはそう書いたんです。
 では、蓮如はどうやって曲がった松ノ木をまっすぐに見たのかというと、
蓮如は「これは曲がった松ノ木であるとまっすぐに見た、お前達は曲がった松ノ木を
曲がったものと見ずに、まっすぐに見ようとしたからこの松ノ木をまっすぐに見る
ことができなかったのだ」と言いました。

 つまり、曲がったものは曲がっているものと、ありのままに見ることが正見です。


では、なぜ正見が大事になるのか、それは次回の書き込みですることにします。