連載小説『佐伯探偵事務所の人々』其の序



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投稿者: 草薙丸 @ pppe0ef.pppp.ap.so-net.or.jp on 98/3/17 20:02:03

プロローグ 〜青天の霹靂〜

 全ては、その一言から始まった。

「パパぁ……」

 事務所の雰囲気が一気に凍り付いた。机の上に資料を広げ、何やら細かい話し合いをしていた青年二人の顔から血の気がひいていく。それはかくいうあたしも一緒で、お盆に乗ったお茶をこぼさなかったのは奇跡に近い。
 事務所の戸の前に立ち尽くしているのは、年の頃六つか七つの女の子だった。女のあたしが言うのも何だが、将来有望な顔立ちをしている。両親はいい仕事をしたものだ、と感心する暇もなく、先の一言を発した。男性陣二人の体が凍り付いたのも、まあ頷ける話ではある。
「……ええと」
 先に声を発したのは、鳶色の瞳をした青年だった。年は二十五だが、外見だけで判断すると二十歳前の若者のように見える。唇が大きくひきつっているが、これはやはり身に覚えがあるからなのだろうか。確かに、女性に関してあまり苦労しそうにない容姿をしてはいるが、あまり彼の浮いた噂というものを聞いた覚えもない。
 浅香光八八。我が佐伯探偵事務所の所員である。
「お父さんを探しているのかな?」
 何故か恐る恐るといった調子で、光八八君は女の子に話しかけた。
「違うの。パパなの」
 そう言って指さした先には──
「──私、ですか」
 とても大きな何かを少しずつ諦めていくような顔で、青年はぼそりと呟いた。実際の年齢を聞いたことはないが、見ただけならば二十代前半で十分通用する。もっとも探偵事務所を経営しているぐらいなのだから、せめて三十路は越えているはずなのだが。
 佐伯啓史郎。佐伯探偵事務所の所長にして──どうも、この女の子のパパらしい。やることはやっているという話を聞いたことがあったが、その結晶をこの世に残しているという話は初耳だった。
「わたし、ママにね、ママはもうすぐいなくなっちゃうから、パパのところに行きなさいって言われたの」
「……啓史郎さん……」
 光八八君が、汚らわしいものを見るときのような視線を啓史郎さんに投げつける。
「責任問題ですよ、これは」
「私の責任じゃありませんよ!」
「大人ってみんなそう言うのよね」
「水葵ちゃんまで!」
 啓史郎さんはとにかく自分の非を認めないつもりらしく、資料の類をまとめたファイルを乱暴に閉じると、立ち上がって抗弁を始めた。
「私はですね、そういう問題に関してはきちんと責任をとる質なんですから。もしこの子が本当に私の子供だったとして、こんなに成長するまで放っておくわけないでしょう」
 今一つ説得力の欠ける言い訳だが、とにかく言いたいことだけは伝わった。しかし光八八君は全く信用していないふうに、半眼で啓史郎さんを睨む。
「……もしこの子の母親が、あなたに迷惑をかけたくない一心で、この子の存在をひた隠しにしていたとしたら……?」
「ああ、あり得るあり得る」
 呑気に同意するあたしに、啓史郎さんの凄まじい視線が突き刺さる──が、たいして気にならないのでどうでもいい。
「私はね、もし仮にですよ、女性に子供を孕ませてしまったら、それに気付かないほど脳腐りじゃありませんよ」
「何か苦しい言い訳よね」
「ですよね」
「あああっ、どうしても私を父親にしたいんですかっ!?」
 実はまったくその通りなのだが、どうもそれを言うと彼の恨みを買いそうな雰囲気なので秘密にしておく。光八八君はもっと簡単な理由だろう──つまり、自分がパパにはなりたくない。物理的にも父親は二人存在しないわけで──これはつまり、実子から見ての話なのだけど──啓史郎さんがパパになれば、光八八君は絶対にそうではないと言い切れるだけの確証が付く。さすがに二十歳かそこらでパパにはなりたくないらしい。
「ね、ねえ。本当に、私は君のパパさんなんでしょうか?」
 ついに啓史郎さんは、入り口のところで立ち尽くしていた女の子に確認をとりだした。何やら表情が必死だが、これは多分僅かな可能性に賭けているためだろう。もしYesが返ってきたら絶望的だ──そしてあたしの予測したところ、その可能性はほぼ一00%に近い。
「うん!」
 案の定とはこのことか、女の子は無意味なまでに元気よく、天使の微笑みで首を縦に振ったのだった。啓史郎さんの表情が凍り付き、光八八君はほっと胸を撫で下ろす。あたしはと言えば、お盆をテーブルに下ろすと、接客用のソファに身を沈め、呑気に煎餅などをかじっている。他にやることもないし、すべきではない。少なくとも今は、啓史郎さんの一挙手一投足を観察した方が面白そうではあるし。
 光八八君は我関せずといった表情で、あたしと向かい合うようにしてソファに座り込み、お茶で喉を潤していた。いちいち干渉するのは得策ではないと考えたらしい。この顔はそういう顔だ。
 つまり──取り敢えず、自分は安心だ。
「うあああ」
 啓史郎さんは何やら一人で苦悶していた。それを女の子が「大丈夫、パパ」となだめすかしているが、問題の一言のところで、彼の体が痙攣していたりする。余程嫌なのだろう……身に覚えがないとすればなおさらだ。
「ねえねえ、啓史郎さん。ほんとにその子のこと、全然記憶にないわけ?」
 あたしが尋ねると、彼は何やらもの凄まじい形相でこちらを振り返った。
「さっきからそう言ってるじゃないですか!!」
「でも啓史郎さん、僕が言うのも何ですけど、今更その子のパパじゃないって言っても──」
 と、光八八君はつつと人差し指で女の子を指さして、
「その子をどう納得させるつもりです?」
 確かにこれは難問だった。ここまで啓史郎さんのことをパパだと信じ切っている子供相手に「私はあなたのパパなんかじゃありません」なんて言ったら、まず間違いなく取り返しのつかないことになるだろう。具体的にそれが何かはよくわからないが、とにかく取り返しのつかないことだ。
 啓史郎さんもそれに気付いたのか、自分の頭を抱え込んで、床に座り込んでしまった。瞑目しているようにすら見える──ひょっとしたら本気で瞑目したいのかもしれないが。
彼は何やらもごもごと、こちらに聞き取れないぐらいの小声で自問自答しているようだった。多分この子の存在がもたらす社会的影響についてでも考えているのだろう──親権問題から近所のおばさんの噂まで、処理しなければいけないことは無数にある。ただしこれらは、彼が自らパパであると自認した場合のみの話だ。ひょっとしたら全く別のことでも考えて、現実逃避しているのかもしれない。こちらは非建設的だが、やや甘美な空想ではある。ちなみにあたしだったら現実逃避を選ぶ。
「何にしろ──」
 光八八君は、全く他人事といった口調で呟いた。
「その子の名前やら何やら聞かないと、何も始まらないと思いますけどねえ……」
 その日一番前向きだと思われる意見は、しかし啓史郎さんには届きにくいようだった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 あたしがこの佐伯探偵事務所に務めるようになってから、はや数年が経つ。最初にここに来たのは、まだあたしが高校生だった頃──丁度両親が事故で他界し、身の振り方について真剣に悩んでいた頃のことだった。両親の前方不注意だったので、当然ながら保険なんぞというものも降りず、あたしは一気に貧乏のどん底に叩き落とされた。父親が割合真面目な人間だったので、いざというときのために結構な額の貯金を残していたことが、あたしの唯一の救いだった。それにしたって不幸なことには変わりがない。大学への進学問題なんかもあったし、それすら越えて純粋に生活面での問題もある。それまで単なる女子高生だったあたしが、世間の荒波に無造作に放り出されたのだ。あのときの苦労は、今思い出しても嫌になる。
 とにかくあたしは貧窮していた。大学進学は──学力では全く問題がないと言われていたのだ、一応──金銭的に断念し、身を落ち着けるためバイト探しに精を出した。
 そして見つけたのが、この佐伯探偵事務所だった、というわけだ。探偵事務所の一員なんてちょっと他にないし、何より時給がよかったのにつられて、あたしはここに務めることにした。面接は啓史郎さんがやったのだが、実際にはあまり面接らしいことはしていない。簡単な質問に二、三答えたら、それで合格だった。
 とにかくあたしは、佐伯探偵事務所の一員になったのだ。
 それから数年経て今に至るわけだが、こんなことは初めてだった──初めてじゃなかったら、それはそれで困りものだが。
 啓史郎さんの女癖が特別悪いわけではない。確かに以前は結構派手に遊んでいたらしいが、今は立派に奥さんだっているのだ。まさかあたしだって、彼がそんな非人道的なことをしたなんて考えたくない。
 しかし──これほどはっきりとした物証があると、さすがに弁護のしようもない。
「ねえ、啓史郎さん。あの子、あなたが父親だって信じ切ってるみたいよ?」
「……そんなの、見て聞いたらわかりますよ」
 どうやら拗ねているらしい。だが所詮その程度のことであって、問題の解決になどなりはしないのだが。
「啓史郎さん、愛ちゃんの部屋はどうします?」
 光八八君とあの子──桂木愛という名前らしい──は何故か意気投合し、テーブルの上に雑誌などを広げつつ、楽しげに談笑していた。そしてこの質問……どうやら本気で「お友達」になったらしい。ちなみにあたしは子供は好きなので、愛ちゃんとの対人的問題は一切なし。これで啓史郎さんは完全に孤立無援になったというわけだ。
「……上に一個部屋が空いていたでしょう、あそこを……」
「わたし、パパと一緒がいい!」
 満面の笑顔で、さらりと言い放つ愛ちゃん。啓史郎さんの顔が一瞬強張る。それでも子供相手ということで何とか自制したのか、口の端をひきつらせながらも、
「い、いいですよ」
 と了承する。
「……これは、先が楽しみだなあ」
 不謹慎な光八八君の発言も、珍しく耳に入っていないらしく──。
 啓史郎さんは一人、机に突っ伏して泣いていた。

 続く