短編『時の使者』



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投稿者: さすらい @ 104.gate20.tokyo.att.ne.jp on 98/1/29 23:09:50

 時たま、言い様のない気怠さに包まれる。抜け出せない。なにをするのもいやになる。勉強が1ページも進まない、音楽に集中できない・・・・。
 そんなとき、普通なら戻ろうと必死になるのだろうか。でも、私は弱いから、そのまま思考の渦に潜り込む。後ろでなにが流れていようと関係ない。誰の足音がしたって・・・・構わない。無視すればいいのだ、部屋に入ってきたら。そういう冷たさがあるから、私はやっていける。ある意味冷めている。戻る、の表現に戸惑ったろうか。戻る、とは‘この現実世界に身を置く’事である。じゃ、私は死人か? そうではない。でも、いくら肉体としての私はこの現実にいて、キーを叩いていても、本当の‘私’はここにいない。思考の世界を浮遊している。考えはとびとびになり、まとまりを持たない。そういう不安定さの中に浮かぶことが、時たま必要なのだ。無意味な時間かもしれない、不安定で怖いかもしれない。でも、結構気に入っているのだ。だから、やめることはない。
 思考の世界。どんなところだろう。色はあるのだろうか。他人は来るのだろうか。考えると止まらない・・・。私は漠然と‘灰色の宇宙’をイメージしている。重力がなく、いちめんの灰色、浮かぶ自分。それだけだ。無彩色なのか色物もあるのかなんてわからない。在ったとしてもそれはまだ私の思考の世界に存在していない。別に考える必要もない。体から切り放された何かが、浮かんでるスペースがある、ただそれだけなのだから。
 今日は、ある意味鬱な日だった。嫌、ではない、ただ無気力だったのだ。雪が降っていた。長靴で楽しく雪山を歩いていた。心が満たされていた・・・・・少なくともあの時は。でも・・・・いつからだろう。気付いたら私の目は虚ろだった。首は激しく前傾し、口の端は緩やかな下降線を描いていた。不機嫌、ではない。楽しくもないが。ただ、動いている意味を失ったロボットのように、歩いていたのだ。歩くことしかしていなかった。普段やっている何気ない動作に全神経を集中していた。実際の所、そうしないと止まってしまいそうだったのだ。ネジが切れかけていた。相も変わらず‘世界が透明で、自分だけが不透明’感覚は続いていたのだが、いつもよりそれはひどいみたいだった。そう、体は地面に触れていても、‘私’は少し上空にいた。‘現実的’ではなかったのだ。存在しないのではない。ただ現実に在るのは私の一部だという話だ。なんて事はない。上空に浮かんでしまうような部分の‘私’など、本来誰も見ていないのだから、時たま入れ物から消えたって、気にならないだろう。気にされても困る。やめることは出来ないのだから。
 気にされても困る・・か。彼ならば気にするかもしれない。というか、気付くかもしれない。彼も同じ様なこと体験しているようだから。いや、勝手に仲間意識を持つのはやめよう。押しつけられるのは迷惑だろうし、こっちが滑稽だ。でも・・・・いやわからない。思考が空回りしている。いいけど・・・いいけどね。こうやっていちいち書き留めているのもおかしい気がする。手の動きが早いのが唯一の救いか。でも、書き留められるようなスピードで私の思考は流れていない。最大限、記しているだけだ。まだまだ漏れはある・・・。彼は・・・私と関わって良かったのだろうか。未だに、疑問である。いやいや、こっちは嫌ではない。私は誰と関わることをも、拒まない。来るもの拒まず、去るもの追わず。まさにそうだ。なんの執着もない。なにを得ても、なにを失っても気にならない。今だけの、一時的な敗退的な思考だろうか。でも、そうではない気がする。いつだって・・・いや殆どの時間そう感じているから。でも、大人になってしまえばなくなるのだろうか。思春期特有の悩み、と笑える? それならそれでもいい。そうなる方がいい。普通になる方が・・楽だ。親に言われたなぁ、「どうせまともじゃないのだから、普通になる努力ぐらいしろ」と。普通じゃなくていいのだよ・・・・そう言いたかった。そんな馬鹿らしいことに努力するのなら、もっと有意義に力を使いたい。なにが有意義なのかさえ、分かっていないのかもしれないけれど。でも、いいのだ。いいのだよ・・・・・。
 ああ・・・なにを考えていたっけ。そう、‘彼’のことだ。彼は・・・私とはおよそ正反対の人間だ。それでも、何かに惹かれた。人混みの中で見つけだせる何かを、彼は持っていた。だから・・・・だから、気になった。自分に何かが出来るとは思っていなかった。でも・・・なぜか近付きたかった。そう・・・・生まれて初めて人に近付きたいと思った。なんなのだろう。今までいろんな人と関わってきた。けれどそれは、距離を置いた付き合いで、いつも心の中で冷静に‘社交的な仮面をかぶっている自分’が見えていて。笑えた。とびっきりの苦笑いだろうか。とにかく、まともではなかった。自分の周りで人が来、去っていくのを見ていた。そう、ただ見ていた。冷静に観察し、それを現実を受けとめた。感情はない。友達が居なくて、でもどうしても誰かといたい子が寄ってきたこともあった。彼女のことを好きとも嫌いとも思えなかった。ただ、居ても居なくても良かった。ひどいことだ。でも、現実だ。教室移動の時に声をかけられれば、一緒に行った。お弁当も向こうが持ってくるから、一緒に食べた。でも、こちらからやった記憶はない。本当に・・・ない。思えば自発的にそんなことをやった記憶はほとんどない。ただ1人の親友に対して以外は。別に・・・1人で行動を起こすことになんの感情も持たなかった。空虚感もない、寂しくもない。嬉しくもないが、動きを会わせる相手が居ないだけ楽だと思っていた。これが、周りとどう違うのか分からない。同じように考える人がどれだけ居るのかも知らない。でも、そんなことはどうでもいい。これが私だ。ただそれだけを自分自身で掴んでいればいい。
 とにかく、私は私と正反対な彼にあった。いや、周りから見れば非常に似通っているのかもしれない。でも、分かっている。‘彼と私は根本的に違う’と。紫外線も赤外線も人間の目から見れば透明なように、だ。両極端の場合、在る基準を振り切ってしまえば、同じになってしまうのだ。目盛り外もゼロ以下も全て“測定不能”なのだから。
 彼にあった。彼を見た。彼の視線もこっちに向いた。それだけだ。偶然だか、必然だか、そんなことは関係ない。‘そうなった’のだ。私と彼の性別が違うことや、その他の現実的設定はなんの意味も持たない。実際問題としてあいてはそれを気にするとしても、私は構わない。‘彼’と‘私’が出会った、それが重要な問題なのだ。・・・誤解してもらっては困る。その途端に何かが変わったわけではない。長年かけて作ってきた‘自分’は、そうそう変わるものではない。ただ何らかの‘変化’の兆しが見えたのだ。今が始まりだと、分かったのだ。電撃ショック的な感触もない。ただ果てない泉に絵筆が一瞬触れたようなそんな感覚である。薄い色が泉に広がり、柔らかな波紋が広がり消え、色も消えた。そんなわずかな、ごくわずかな何かだった。でも、いつもと何かが違っていた。それだけは分かっていた。
 笑える話だが、恋ではない。それは自分でも分かる。そんな思いは抱きもしない。いやいや・・・・誰も愛せない。そうじゃないかもしれないと思えてきた矢先でもあるのだが、やはり無理そうだ。誰を失うことも受け入れられてしまう。悲しくないわけでなく、でも、予測が立っているのだ。そう、いつでも可能性を考える。そして結果がその選択しに入っていることがあまりにも多いため、驚けもしないのだ。私は・・・・本気になれない。人の全てを見つめても、人に全てを見せない。ずるい、と思うが、それが私の生き方だ。いつでも、なにを失っても、誰が去っていっても、自分だけで立っていられるようにしておく。体重を預けない、愛を注がない。だから、失っても辛くない。いつだって選択肢に入っているから。どの瞬間にそれが起こってもいいように、いつでも身構えている。だから驚かない。悲しいかな、潜在的に備わっている自営本能なのだ。だから、本気で何かを欲しいと思える人を、本気で失ったことについて悲しんでいる人を、失うことを恐れていつでも神経に愛を注いでいる人を、私は、羨ましいと思う。とても、とても羨ましいと思う。それになれないことは分かっている。なれなくてもいい。でも、羨んでいる。なれなくてもいい。いや、なることは怖い。その結果を恐れて生きて、今の‘私’的生き方があるわけだから。そして、信じられなくもある。何故あれだけ真剣になれるのか。きっと、分からなくてもいいと思っている。分かったときは、そういう生き方をしているときだからだ。
 壁を作っている。だから、なにを失っても怖くない。彼でさえ、いつ側から居なくなってもいいと思っている。それは悲しくないのではなく・・・耐えられるという話なのだ。受けとめられる・・・・必死になれない。非情だと、自分のことを思う。確かにそうなのだ。そのことをまだ誰にも告げていない。告げていいものか、考えあぐねている。人を傷つけることは・・・・主義に反するからだ。それだけはやってはいけない。だからまだ、貝のように口を閉ざしたままでいる。きっとこれでいいのだ。分かってもらえなくとも、大したことはない。このまま生き続けよう・・・・。
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「闇、だな」
「ええ・・・・」
 老人の声が2人きりの広場に響く。いや・・・・正確には‘空間’だろうか。宇宙を思わせるような空間に、デスクの上で腕を組んだ老人と資料を持って佇んでいる女性が浮いている。足場はない、影もない。まるでそこにスクリーンがあるかのように、荒い粒子で2人の姿が描かれている。ある意味空虚で美しかった。
「面白いほどに負の感情を抱えている」
「・・・・・」
 老人が表情を変えずに言葉を続けた。しかし、明らかに彼は楽しんでいた。わずかにあがった口の端がそれを物語っていた。
 女性の方は困ったような顔をして、次の言葉を待っているようだった。20代後半くらいだろうか。聡明そうな顔立ちと趣味の良いシックな服装。有能な女性秘書といえばしっくりくるような出で立ちだった。
「・・・・・どうなさいます?」
 女性の口が美しく動く。先ほどの困ったような感情は消え失せ、そこには命令を待つロボットのような印象が浮かんでいた。
 老人はそんな女性の姿を見て、眩しいかのように目を細めた。気むずかしい顔が少しほぐれる。この有能な女性を、老人は大変気に入っているようだった。
「さて・・・・君はどうしたい?」
 からかうかのような口調で女性に問う。
 女性はわずかに眉を動かした。明らかに動揺している。まさか自分に意見を求められるとは思っていなかったのだろう。数分考え、重そうに口を開く。
「私は・・・・」
「自分の立場など気にしなくていい。素直に言いなさい」
 言いよどむ女性の言葉を遮って、老人は更に笑みを増した。まるで彼女がなにを考え、なにを言わんとしているのか分かっているように。
 女性は深くため息をつくと、紅い唇をきっと結んだ。この老人の前では、建て前を言っても見すかされてしまう、そう考えたのだろう。彼女の瞳は輝きを増し、なによりもそこには動かし様のない意志が生まれていた。
「私は・・・この子を救いたいのです」
 言い終えたあとも、彼女は全身に張りつめた感情を解こうとはしなかった。自分の意見が老人に刃向かう結果になることが分かっていたからだった。そして口に出してしまった以上、彼女は一歩も引くことが出来なかった。 


 世の中には多種多様な人々が住んでいる。それこそ十人十色という言葉がしっくりくる。都会になればなるほどそれは激しくなり、認識の許容範囲を超えてくる。個人間の認識の距離と空間的な距離の間に差が生まれる。それが現代である。
 人の種類と同様、人の職業も今や星の数ほどあると言っていいだろう。第3者からは大差がないように見えても、本人同士は全く別の仕事だと誇りを持っている場合。名称は限りなく似通っているのに、その内容に大きな違いがある場合。人間の社会が、発明するものの仕組みがどんどん複雑になるように、今や職業は全てを認識することが不可能なくらいに枝分かれしてしまっている。その知名度はまちまちであり、そこにほんの一握りの人間しか知らない職業があったとしてもおかしくはないだろう。
 あなたは大きな街の事を何処まで知っているだろうか。有名店の数々、若者たちの笑い声、所々で流れている音楽。そんなものはほんの1部にすぎない。いや、それでは一番表の部分しか見ていないのである。
 いつも通る大通りではなく、一本横にそれた道。そこには華やかさの影とも呼べる空間が広がっている。道幅の狭い道。車がすれ違うことさえ出来ない。道は吐き出されたガムなどで薄汚れ、日の光さえも当たっていない。町並みはこじんまりとし、歩く人も心なしか縮こまっている。様々な顔がある。様々な人間関係がある。若い娘なら目を背けたくなるような店、黒光りする車の止まる事務所・・・。まさに、’人間の巣窟’がそこにある。軽はずみな気持ちで足を踏み入れられない何かが。
 そんな大きな街の裏通りの一角に、”しろくまビル”と名乗る建物がある。外見は灰色のひび割れたコンクリートせいで、入っている企業もぱっとしない。何がどうなって”しろくま”なのか、未だに謎である。しかし、ここにはとある秘密があった。ここを借りている人々でさえ知らないような秘密が。それは・・・このビルのエレベーターがあの’空間’に繋がっているということだった。しかるべきボタンを押すと、それは起こる。エレベーターは急速に加速を始め(本当は加速していないのだろうが、それくらいの重力がかかる)、ある瞬間自分が中空に放り出されたような感覚を味わう。そして目を開くと・・・あの’空間’が広がっているのだ。


 その言葉を聞いて、老人は更に微笑んだ。しかし、その笑みは一瞬にして後ろに追いやられ、厳しい表情が変わりに宿った。
「・・・本気なのだね?」
「ええ」
 女性の声が震えている。
「・・それが規約を壊すことだとわかっていてもかね」
「・・わかっています。でも・・見捨ててはおけないのです。なぜなら・・」
 女性はいったん言葉を止めた。口に出して良いものか、考えあぐねているのだろう。
 老人は何も言葉を発しない。ただ穏やかな目で女性を見つめていた。
「なぜなら・・・この子は私だからです」
 女は大きく息をついた。これは最大級の秘密だった。仕事に私情を入れてはいけない。それは、彼女自身よくわかっていることだった。違反して追放されたものを見てきたし、規約を守り続けることが彼女の信念でもあった。
 老人はその姿をしばらく見つめると、更に深く椅子に沈んだ。彼女と一緒に固まってしまった自分の体を無理矢理解きほぐすかのような動作だった。そして、手を組み直すと、老人は抑揚のない声を発した。
「・・・やりなさい。あとのことはなんとかしよう」
「あ・・・ありがとうございます!」
 もっと、反論なりされると思っていたらしい。女性は心底ほっとした表情を浮かべた。歓喜の笑みをたたえて老人を見つめ、頭を下げる。
 老人はそれに対して、なんの反応も見せなかった。もう、そこには誰も居ないかのような振る舞いだ。
 女性の方もそれを読みとったらしい。手にした資料の束を整えると、軽くかかとを合わせた。本当は今すぐにでも計画を立てたいだろう。しかし、老人の態度はそれを微塵も許していなかった。性急にしなければいけないことでもない。なぜなら・・・これはもう起こったことだからだ。女性が今出来ることは、老人の気分を損ねぬよう、この空間を辞すことだった。
「では・・失礼します」
「ああ・・・がんばりたまえ・・・・」
 女性の映像が消える。繋がる空間からほかに移動したのだろう。この’空間’は様々なところから来られるようになっている。それは、各々が個人情報を知られることなく仕事を行う為だとも言われている。真意はわからない・・・。
 老人は大きくため息をつくと、デスクの上のスイッチを押した。老人の映像が荒くなっていく。
「それも定めか・・・・時の使者よ・・・・・」
 映像は完全に消え、’空間’に在るものは闇のみとなった。
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 求めている物と、現実っていつも違う。
 あの人はそこにいるのに、なんだかいつも不安になる。きっと、さらけ出してないから。さらけ出せる・・・・訳もない。私は白い部屋にいればいい。誰が入ってこようと、私に何をしようと構わない。ただ、ここにいさせて・・。生命の息吹、なんて憎らしい存在。圧倒される、あの力に。柳のような私は白に囲まれていたいだけ。周りは気にしない。心を隠してしまえば、体なんて所詮入れ物だから。何も要らない、誰も要らない。触れないで・・・心には触れないで・・・・。他人なんて要らないの、怖いから、信じられないから。
 出たいと思う自分もいるのかも知れない。でも、恐怖はそんな私を地面にねじ伏せて離さない。誰かが押しのければいいのに。予想外を起こせばいいのに。信じられないくらいのこと。私が壊れればいいのに。バラバラになって、血は流れなくて。きっと元通りにもならないけど、それでもいい。今は自分の生命さえ疎ましい。救いの手。在るのかな・・・・・。
 目覚めない・・・・・こんなんじゃ。きっと誰も見てない。私も何も見ないから。昨日から喉に引っかかった言葉、痛みを増している。でも、出さない。私の弱さは日の光に当てられるほど、綺麗じゃない。闇が増えてしまう・・・・生臭い感情。でも・・・・でも・・・・・。あの人・・・。可能性は捨てられない。でも、拒絶してしまえば済む。期待を裏切られることもない・・・・変化もないけど。見て欲しい・・・見て欲しくない。あのね・・・あのね・・・・。”私を・・・助けて・・・”
 ・・・・・やっと言えた。でも何の意味もない。届かないもの、こんな声。口に出さない、瞳にも浮かばない。心の奥底の、たった1ヘルツの声。虚しいね・・。でも、言えるんだね、まだ。私もまだ人間だったらしい・・・・。誰か・・・聞くかな。そんなわけないけど。誰か・・・・を求めている。馬鹿みたい。拒絶するだけかも知れないのに・・・。
 私がここに在ったって、誰も私を認めなければ私は’無い’って事。知ってるの。わかってるの。’在る’のに’無い’なんて、なんて中途半端ね・・・・。嫌だな・・そういうの。だから・・・・決めたの。すっかり無くなるの・・。’無い’から’無い’の・・・それだったら綺麗だもの。だから、要らない。私なんてもう要らない・・・・・・・・。
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 それは今朝来たら机に置かれていた。封筒には“時の使者本部 神崎総一郎様”と書かれていた。間違いなく彼宛だった。仕方なく封筒を破る。差出人は“時の使者‘鳥’”と書かれていた・・・・。
 今やっと一読したところだった。思わず眉をしかめてしまう。なんということだろうか。彼は自分が老人であることを、今非情に後悔していた。年老いた彼には思春期の少女の時間感覚など分かるわけもなかった。ため息が出る。
 もう1度読み直さないと仕方ないのか。総一郎がそう思ってページをめくろうとした瞬間、空間の端にぼんやりと映像が浮かび上がった。
 昨日の女性だ。名を‘洋子’という。彼女は昨日にもまして整った服装であったが、荒い息をつく唇だけが、彼女の驚きを表していた。
「・・・およびでしょうか?」
「洋子君、早かったね。・・・今表示する。読みたまえ」
 そういうと総一郎はデスクの引き出しの1つに書類を差し込んだ。彼と洋子の丁度中間に原稿が浮かび上がる。
 洋子は集中して読み始めたようだった。彼はというと・・・目は開いているものの、その瞳はなにも掴んでおらず、ただ闇を見つめていた。あまりにも、あまりにも重たい文章だった。そして、彼はもう1度読みたくもなかったし、それについて考えたくもなかったのだ。
 しばらくたって、総一郎の耳に洋子のため息が聞こえた。読み終わったのだろう。顔を上げると、何とも言えない表情をした洋子の目が自分を食い入るように見つめていた。
「元老・・・。これは一体いつの・・・」
「今朝、届いていた。昨日の時点では出現していなかったことだ。」
「ああ・・・・」
 洋子がため息とも叫びともつかぬ声を上げて頭を押さえる。その姿はいたたまれなかった。
「彼女の時間軸が少し予測とずれてしまったのだ。誰のせいでもない」
「でも・・・でも・・・!!」
 洋子の狂気は当分おさまりそうになかった。彼女は今や完璧に泣き崩れていた。
 ・・・・そう言ったものの、彼もまた悲しんでいなかったわけではない。救うと決めた以上、今度は最善を尽くさなければいけないはずだった。昨日開始していれば、こんな事にはならなかったかもしれない。そう思わずにはいられなかった。
「落ちついてくれ・・・。君が始めないともっと手遅れになる」
 その言葉を聞いて、洋子はなんとか自制を始めたようだった。涙は止まり、荒かった息は次第にゆっくりとなってきた。数分後には顔を上げ、乱れた服装を直すまでに至った。涙で流れ落ちた化粧だけはどうすることもできなかったが。
「すみません・・・取り乱してしまって」
「仕方がない。・・・ではさっそく仕事に移ろうか、‘月’君。」


 ・・・・世の中には知名度が極端に低い仕事がある。なぜなら、この世には数多くの職業が存在するからだ。だからこそ、存在自体が信じられてない仕事だって、中にはあるのかもしれない。それを全て認識できるほど、政府は頑張ってはいないのだろうから。
 私達の住む世界は‘3次元’である。長さ、幅、高さを合わせ持つ世界だ。一般に‘0次元’は点の世界、‘1次元’は線の世界、‘2次元’は面の世界、と言われている。そして私達の住むこの世界が‘3次元’というわけだ。人間という生き物は、元来好奇心旺盛な種族である。今ある現象の全てを、自分たちの理解できる言語になおし、なおかつそこに法則を見いだすことで、この世を完全に支配しようと思っている。‘次元’についても同じ事である。人は今世の中に存在するものを定義づけただけでは止まらない。今まで判明した法則に従って、まだ自分たちの知らない世界が続いているものだと考えてしまう。まさに夢の世界である。‘次元’というのは、軸のことだと思われる。つまり、軸の本数で‘次元’の名称が変わるわけだ。私達の居る空間は‘3次元’。長さ、幅、高さの3本の軸で出来ているからだ。では、そこにもう1本の軸が存在するとしたら? それこそが、科学で証明しきれないことを握るカギと騒がれている‘4次元’なのである。
 もう1本の軸はなんなのか判明していない。それは当たり前のことである。平面の所を立体が通っても、それが大きさを変えていく平面の連続としか見えないように、3次元にすむ私達に4次元目を理解しろというのは不可能なのである。4本目の軸は生命の軸ではないかと言われている。その世界に住むものは自分の年齢を操れるという想像だ。いつかは来る‘死’というものを恐れていることが、この発想を生み出したのだろうか。また、それは時間軸だとも言われている。もしこれが本当ならば、超能力はほぼ解明できてしまう。超能力者と呼ばれる者は、なにかの弾みで4次元をわたっている(又は操っている)と思えばいいからだ。でも、実際というものはそう華やかなものではない。いつだって夢物語は、実行可能な形にデフォルメされてこの世に現れるのである。
 ‘時の使者’は、いわば時間軸を操る団体である。ここで勘違いしてはいけない。決してそれは彼らが4次元空間の住人(もしくは操作人)と言うことを表しているのではない。彼らはもちろん“3次元の住人”なのだ。ただし・・・面と時間軸を持つ3次元の。


「手短に行こう。これを持って行きなさい」
 元老はそう言うと彼のデスクの中から木箱をとりだした。
 見覚えがあった。洋子も前に1度見たことがある。’力’を封じてある箱だ。彼女も又元老から1つの箱を手渡され・・・’月’と呼ばれるまでにいたったのだった。力を制御するのは難しい。しかし、制御できないと’時の使者’としての称号はもらえない。洋子はそれを最短コースでくぐり抜けたのだった。
「・・・・それは・・・・」
 いぶかしむ。’力’はおおかた出払っているはずだった。今、正規のメンバーは全員そろっているはずだ。残っているはずもない。大体これから過去に行こうというのに、目の前にある箱をどうしろと言うのか。扱えるのはこの世界に住む者だけのはずだった。
 元老はそんな彼女の心中を察してか、何とも言えない表情をした。
「これは・・・・’剣’だ」
「剣・・・そのようなもの、あったのですか・・・」
 始めて聞く’力’だった。そしてその言霊はあまりにもまがまがしい。
 元老は更に顔をゆがませると、一言一言を慎重に紡ぎだした。
「これは・・・本来禁忌の力だ。制御はままならず、強い。多くの使者がこれに挑み、自らを死に追いやった。いつからかこれを抜いた’力’だけで正規のものとなっていった」
 身動き一つ出来ない。のどが渇く。飲み込むつばさえも残っていなかった。それでもやっとのことで、声を絞り出す。
「・・それを・・・どうしようとおっしゃるのですか・・・」
 元老の視線が洋子の顔をとらえた。悲しみと優しさに満ちた瞳だった。それは弱く儚い表情であったが、それ以上の追求を止める何かがあった。
「・・・・現代の使者には到底扱えん。しかしな・・・・過去の者なら出来るかもしれんのだ」
「でも・・それは・・・・」
 元老は洋子の悲痛な声を遮った。
「わかっておる・・。喰われるかもしれん・・・・。しかし、もしかしたら意志が勝つかも知れないのだ。彼女を思う、強い想いがな」
「・・・・・わかりました・・・・」
 洋子は気付いた。選択の余地はないのだということを。まだ見ぬ少年に全てを賭けるしか残されていないのだった。その少年は、何も知らずにこの’剣’を取るのだろうか。それは・・・・・。
 様々な想いが駆けめぐった。しかし、一刻の猶予も残されていなかった。
「・・行って参ります・・・・」
 洋子は、うつむいたままそう答えた。
 頭の向こうから元老の声が響く。
「そうか・・・。向こうには’鳥’がいる。彼にはもう目星がついているはずだ。彼に渡せばいい」
「はい・・・・」
 もう何も言いたくなかった。洋子はきびすを返すと’空間’を辞した。


 薄暗い路地だった。時を越えてきたので時刻は定かではないが、夕方のはずだった。暗すぎる・・・。そんな想いが浮かんできたが、無視して歩を進めることにした。
 洋子の手には’箱’が掲げられている。中身の知れぬ、嫌な届け物だった。使者の力にはそれぞれ役目と武器がある。’月’は見守る存在であり、貫く冷たい光が彼女の獲物だった。’鳥’は・・・。彼女は記憶を探る。確か偵察中心だったはずだ。嘴と大きな羽根で追っ手を防いだりもするはずだった。これは、入った当初に教え込まれた知識だ。使者と生身で会うのはこれが初めてだった。少し緊張する。しかし、足はただひたすら急いでいた。
 三叉路が現れた。直感的に左に折れる。一応聞いてきてはいたのだが、必要がなかった。同業者のにおいが、その道には充満していた。
 しばらく歩くと、目的の場所に着いた。あまりにも昔のその建物に、洋子は少しためらった。けれど、ゆっくりしている暇はない。洋子は木戸に手をかけると、その建物の中へと入っていった。

 中にはいるとむっとした。カビと埃の臭いである。薄暗い。どうやら、周りにあるのは全て本のようだ。洋子はそれらを片目で見やりながら、中央のストーブの前で悠々と読書をしている男の方へ歩みよった。
「・・・・あなたが’鳥’ですか?」
 洋子が話しかけると、男は面倒そうに読みかけの本から目を上げた。
 なかなかの美青年だった。少し固められた黒髪に、細めの顔。綺麗に開かれた瞳は闇をたたえ、全てを吸い込んでいるかのようだった。口には皮肉な笑いが絶えず浮かんでいる。黒いセーターに黒いズボンという出で立ちにも拘わらず、それは男によく似合っていた。
「おやおや・・・・久しぶりにお客が来たと思ったら、仕事関係か。まぁ、君が綺麗だからいいとしよう。座れよ、お茶でも飲むか?」
「結構です」
 洋子は立ったまま答えた。呑気で饒舌な男に、心なしか苛立ちを覚えていた。
 男はそんな洋子を見ると、肩をすくめた。読みかけの本を机の上に置くと、両手を組んで顎を乗せた。
「おやおや、そんな眉間にしわが寄りそうな顔をしていると、せっかくの美人が台無しだ。過ぎたことなんだ。今更かりかりしても仕方ないだろうに」
 男はあくまで軽口を叩く。洋子は言葉を返したくもなかった。
「しかし君もご苦労だね。こんな辺境とも言える過去までやってきて、人助けか。僕なんかは勝手に来てるからいいが、はっきり言ってつまらないところだよ、ここは。ま、もっとも君のような人がいれば、又変わったかも知れないけどね」
 そう言って男は軽くウィンクした。
「・・・用件はわかってらっしゃいますね?」
 無反応な洋子の顔を、男の細められた視線が撫でていく。明らかに彼は今の状況を楽しんでいるかのようだった。
「つれないなぁ。ああ・・・わかってるとも。人材はもう見つけてある。数ヶ月後に出会う予定だ。心配することはない」
 それを聞いて、洋子はようやくほっとした。
「そうですか。では、これを・・・」
 洋子が箱を手渡すと、男は軽く口笛を鳴らした。
「こりゃぁ、すごい。総一郎爺さん、ずいぶん思い切ったことをしたなぁ。ふぅん、これをね・・・・。ますますあの坊やが適任だ」
「’剣’をご存じなのですか・・・?」
「ああ・・・。君みたいな優等生には知られてないだろうがね。僕は異端児で通っていたものだから、よく知っている。これの威力も危険さも。何しろ、もう少しで僕が持つところだったものだから」
 そう言うと、男は哀しく微笑んだ。
 洋子はそんな彼の表情に驚いてしまった。なんだか見てしまってはいけない一面を見たようだった。
 そんな洋子に気付いたのか、男は顔を上げるといっそう皮肉に笑った。
「確かに頂戴したよ。必ず渡す。・・・・しかし君も物好きだね。規約を違反してまで、こんな人助けをするなんて。知っているだろ? 違反者への罰則は」
「はい。でも・・・いいんです」
 洋子は静かに答えた。
 男はそんな洋子を見ると、少し何か言いかけたが、結局何も言わずに又本を手に取った。そして、もう2度と目を上げることはなさそうだった。
「では・・失礼します」
 洋子はお辞儀をして出ていこうとした。返事は期待していなかった。
 戸口に手をかけ出ようとしたとき、後ろから声が飛んできた。
「会えて面白かったよ」
「私も・・・・・」
 洋子は聞こえないようにそう呟くと、その建物を後にした。

 道をゆっくり歩く。仕事は終わった。急ぐこともない。
 違反者への罰則、それは名称通りの物に姿を変えられることだった。あの男はいつかなにかをしそうだ。その時はどうなるのだろうか。あの容貌からして鴉が向いているに違いない。そう思うと、洋子はなんだか笑えてきた。
「そして私は月に・・・」
 適任だとも思えなかったが、今となってはなんだかすんなり受け入れられた。一生日の光を受けてしか輝けない星。その光は弱く、冷たい。今の自分にとてもよく合っていた。これからあの少女は、そして顔も知らぬ少年は何を感じ、どう生きていくのだろうか。とにかく過去は変わった。まさに、自分は消滅すべき存在となったのだ。思い残すことなど何もない・・・。

 日の射さぬ路から、いつしか洋子の姿は消え、暗くなった東の空に淡い月がのぼっていた。
道行く少年が、本からふと目を上げた青年が、ガラス窓に向かっている老人が・・・・そして孤独な少女が、その光を見つめていた。


                            終わり 

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実験小説として以前アップしましたが、何とか終わったので再アップです(^^;;)
感想戴けたら幸いです。では
                       さすらい