『GEYZER』 第四回



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投稿者: 柏木耕一(旧・日光) @ p07-dn01kuki.saitama.ocn.ne.jp on 97/9/29 09:39:43

「殺人鬼?」
 自室で美雪に本を読んでやっていた拓也は、慌てふためく父を冷たい目で一瞥すると、いかにも馬鹿にしきった表情で言った。
「こんな田舎に? ……小説の読み過ぎじゃないのか?」
 吐き捨てるように言って、視線を本の上に戻す。源三郎は顔面を蒼白にして、ところどころどもりながらも、この村に『殺人鬼』が本当に出現したのだと言い募った。
「本当だよ、外れの伊藤さんがやられたらしいんだ。松下の爺さんが、そりゃもうひどいもんだったって言ってたよ。悲鳴が聞こえて−−物音一つしなくなって、そうっと覗いてみたら−−滅茶苦茶だったらしい。もう、伊藤さんだってわかんないぐらいにやられてたって……」
「少し落ち着けよ。ようするに伊藤さんが殺されたんだな?」
「ひどい殺され方だって……」
「ああ、バラバラ殺人だか何だか知らないが、とにかく伊藤さんは無惨な死に方をしたってわけだ」
 じゃれついてくる美雪の頬を撫でてやりながら、拓也は深い溜息を洩らした。ぱたんと本を閉じ、眉をひそめ、父を睨む。
「……美雪がいるんだ。そんな話はやめてくれないか」
 源三郎は多少気まずそうな顔をした。確かに、知性と感性が幼児レベルにまで退行してしまった少女の前でする会話ではない。
「警察を呼べばいいだけの話だろ、殺人鬼が出たのなら」
 常識的な息子の意見に、しかし源三郎は沈痛な表情で首を横に振った。
「嵐で土砂崩れが起きたんだ……ここにつながる道路二つ、どっちも塞がってるんだよ。電話線も切れて、外部に助けを求められないんだ」
「嵐の山荘、か? −−すぐにおさまるだろうさ、この天気も。それまでに村人が全滅するわけでもないだろ」
「それはそうかもしれないけど……」
 拓也はまだ何か言いたそうな父を無視して、窓の外に視線を動かした。木々は激しく体をよじり、叩きつけるように降る雨は黒いカーテンのようだ。吹き荒れる自然の脅威を何とはなしに眺めながら、彼はぼそりと呟きを洩らした。

「……あそこにいた奴だ」

「は? 何か言ったかい?」
「いいや、別に。……で、他に用事は?」
「いや、特にはないけど……」
「じゃあ出てってくれ」
 それだけ言うと、拓也はもう二度と、本から視線を動かそうとはしなかった。

                ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「気付いたんだね」
 ベッドに寝そべったまま、美雪がぽつりと呟く。天井を見上げる瞳は虚ろで、イミテーションの宝石のように焦点が合っていない。幼児状態の彼女ではない−−時折現れる、三人目の人格だ。
 拓也は本を閉じると、美雪を覗き込むようにして尋ねた。
「……あそこが三浦宗二朗の首塚なんだろ? 秋沢寺にあるのは、単なる飾りものなのか?」
「あれは……意味があるものだよ。あそこは、三浦千秋が埋まってるもの」
 ぼうっとあらぬ方を見つめ、美雪が言う。拓也の心には、不思議と驚きはなかった。どうしてかはわからないが−−何となく、予想できていたのだ。
 風の音を伴奏にして、澄んだ恐怖感が拓也の体を覆っていた。苛立ちが溜まり、握った掌に爪が食い込む。
「……『探索者』……か。何が目的で、こんなことを?」
「何十年も前の恨みを晴らすため、じゃないかな?」
 三浦宗二朗。もう死んでしまった人間。それがまだ生きているとでも思っているのだろうか? 拓也は『探索者』に対してたまらない怒りを抱いていた。全く無関係のことで命を狙われているのだ−−村人全員が。三浦宗二朗などこの村にはもういないと知った時、奴は一体どうするつもりなのだろう……拓也はふとそんなことを考えた。
「……外から内へ、追い詰めるように。『探索者』はそうやって獲物を追い詰める」
「−−どういう意味だ?」
「この村の中心は−−ここだよ、拓也ちゃん」
 轟という雷鳴。停電が発生し、部屋の中は暗闇に閉ざされる。時折走る稲妻の光が、瞬間的に二人の姿を浮き上がらせている。
 何故か恐怖感が薄れた。代わりに拓也の体を苛んでいるのは、焼け付くような焦燥感。何かとてつもない不安が心の中で首をもたげている。
(……怖いんじゃない……不安なんだ)
 『探索者』を恐れているわけではない。理不尽に人の命を奪うことに対しての怒りはあるが、決して特別恐れるほどのことでもないと思う。
 不安なのは、何故そうやって『恐れるほどのことでもない』と思えるのか、なのだ。
(……あの夢……関係、ないよな?)
 心の中の問いに答える者は、いなかった。

                 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 彼−−『GEYZER』は笑っていた。ついに……ついに気付いたのだ。『あいつ』は、俺が『あそこ』から抜け出したのを知ったのだ。ならば自分がどうなるかにも気付いたはずだ。免れ得ぬ死に気付いたはずだ。
 雷鳴が風の音を切り裂く。完全に太陽は雲にその姿を覆われており、村は夜のような闇に包まれている。その暗闇の中を、彼は一人、火照る体躯をうねらせ這いずっていた。地面はぬかるみ、ずぶ濡れになった体は水分を吸収しすぎて鉛のような重さになっている。あまりに移動に適さない状況だった。心臓−−そう呼ばれなくなって久しい部位が、彼の中で早鐘を打っている。しかし−−。
(時間の推移は、奴により強い恐怖を与える)
 それはたまらなく甘美な妄想だった。奴が恐れ、震え、のたうち回る姿は、想像するだけで凄まじいまでの恍惚を彼にもたらした。

 彼は殺意だけを抱いていた。純粋な、透き通る水のような殺意。

 今の彼には、それしかないのだ。

                 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 姫川千鶴は憂鬱だった。激しい雨の中をわざわざ歩いているのも憂鬱だった−−そして歩かざるを得ない自分にも。足の裏を地面から離す度に泥が跳ね、白いワンピースが汚れていく。洗濯しなくてはならないだろう……その手間を考えるだけで、また彼女の表情は陰鬱に沈んでいく。
 もとはと言えば、夫が悪いんだ。ストーブの灯油を切らしたから持ってきてくれだなんて……自分の準備が悪いだけのくせに、その責任を私と共有しようだなんて。
 千鶴はぶつぶつと愚痴をこぼしながら、駐在所へと向かっていた。彼女の夫、姫川太一は、この村で唯一の駐在なのだ。
 風雨は已然弱まる雰囲気すら見せず、轟々と吹き荒れている。そんな中を、妻に灯油を持って来させるなんて、一体どんな神経してるんだろう……。
(でも……)
 結婚してしまった以上、妻としての義務は果たさなければいけない。彼女はそう自分に言い聞かせて歩を進めた。例えどんなに腹が立とうと、それを表に出してはいけない。あくまで夫を陰に日向に補助する、それが妻たる自分の役目なのだと、彼女は信じ切っていた。驚くほど古ぼけている考えだが、それはまだこの村では根強く残っている考えだった。
 しばらくすると、駐在所が見えてくる。無理矢理笑顔を作って近づいたそこは、しかし普段のそこではなかった。
 何かがおかしい。強い違和感がある。
(……硝子?)
 見ると、窓硝子が割れている。一度村の子供達にボールをぶつけられて割られて以来、ガムテープで補強しただけだった窓硝子がまた割られていた。雨は中に強く吹き込んでいるだろう。
(あの人ったら、硝子を割るなんて、子供みたいなこと……)
 思考がそこまで行き着いたときだった。
 突然何かが駐在所の中から飛び出してきた。
 一瞬目に入ったそれを、千鶴は赤い鞭のように感じた。
 そして次の瞬間、首をその鞭でからめとられた彼女は、凄まじい勢いで駐在所の中に引きずり込まれた。窓の縁に残った細かい硝子片が彼女の顔面を切りつける。そして腕、体、脚、全てが切り裂かれ、赤い飛沫が舞う。
 突然襲った激痛に、千鶴はしかし気を失うこともできなかった。
(……?)
 最初に視界にそれが入ったとき、彼女の脳は『それ』を認識することを拒んだ。しかし千鶴は強かった−−『それ』の正体を一瞬で見破るほどに。
 天井からぶらさがったそれは、腹を割かれ、暗褐色の空洞と化した体の中に赤い毛虫のようなものを大量に宿らせた−−夫の死体だった。
 千鶴は、悲鳴を上げた。

                 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「……おおおおお!」
 一声叫ぶと、拓也は突然その場に倒れ、のたうち回り始めた。凄まじいまでの苦痛が彼を襲っていた。体の中を無数の虫が這いずり回っているかのような、耐え難い激痛と嫌悪感。そこがどこであるかも忘れ、彼はただひたすらにのたうち回り、叫び続けた。泥が口の中に入り、苦みが広がる。服はずしりと重みを増し、白かったYシャツは既に焦茶色に染め上げられていた。
 秋沢寺の外れ……“三浦千秋”の首塚。美雪に連れられ訪れた場所。
 その前で倒れている物体−−もとは朝比奈鉄心であったもの。両腕はあり得ざる方向にねじ曲がり、脚は根本から失われ、近くにゴミのように捨ててある。顔面は、虚ろな空洞だけを残した単なる肉塊と化していた。普通顔と呼ばれる部位は、耳の辺りにまでかけて全てが奪われていた。原型すら留めていない、まるで−−。
(ごみのようなしたい……)
 鉄心の腹の内部で、やや大きめの赤い毛虫のようなものが無数に蠢いていた。
(ごみのようにころす……)
 拓也の頭の中で、幾重にも声が響き合っていた。そしてそれが聞こえる度に、痛みはいや増しに増していく。
 破裂しそうな胸を抑え、拓也は涙を流しながら、助けを求め続けた。この痛みを抑えてくれる奴になら何をしてやってもいい、そんな考えすら浮かんだ。

 雨に打たれ、涙と鼻水と涎で顔をべたべたに濡らし苦痛に喘ぐ拓也を見下ろしながら、美雪は陶然とした笑みを浮かべていた。

 続く