短期集中連載(本当か?) 『GEYZER』第一回



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投稿者: 柏木耕一(旧・日光) @ p17-dn01kuki.saitama.ocn.ne.jp on 97/9/21 09:52:50

 ……ふと気が付くと、太陽がすっかり翳っていた。

 森を抜けると、それを待っていたかのように雨が降り出した。視界が白く濁り、地面が強く叩かれる。すぐ目の前にある、古臭い木造の家などは、雨粒に潰されてしまいそうだ。
 ここ秋沢村は、過疎化に悩まされる小さな農村である。道に人の気配はなく、村の中心へと続く坂からも、人影を窺うことはできない。
 村の中央を小川が流れ、左右のなだらかな斜面に田畑や人家が散在している。村の周辺は全て、屹立した山々に囲まれている。家々の庭先には、花をたわわに咲かせた灌木が、雨に打たれて所在なさげに揺れていた。
「まいったな……」
 青年は空を見上げて呟く。決して上等とは言えないYシャツが、べったりと肌に張り付いている。森へ出向く前、父の言葉に従って傘を持ってこなかったことを心底後悔しながら、彼は家へと続く道を歩いていた。
 都会ですっかり荒んだ心を洗い流すため、森林浴でもしようと思って森に入ったのが、間違いと言えば間違いだった。そうすれば雨に降られて濡れ鼠になることも、今こうやってぐだぐだと後悔することもなかったろう。
「いや……」
 森に行かなかったら行かなかったで、何らかの後悔はあったのだ。それはわかりきったことだった。

 何故なら−−いつでも彼は後悔し続けてきたのだから。

               ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 その電話がかかってきたのは、一週間程前のことだった。

               ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 プルルル……プルルル……。
 無粋な電子音が、拓也の平穏をうち砕いた。本の山に埋もれていた上半身を起こし、半眼で電話機を睨み付ける。せっかくの読書の時間を潰されることは、彼にとって最大級に腹が立つことの一つだ。
−−だいたい電話というやつは無礼なのだ。何かの作業に没頭している時でも、まさしく問答無用で人を呼び出してくれる−−。
 拓也は心の中でぶつぶつと文句を言いながら、その無礼な機械を無視するという決定を下した。読みかけの推理小説がちょうどいいところなのだ。名探偵が颯爽と事件を解決する、まさしくその一歩手前なのである。ここで読むのをやめたら、きっと白けてしまうに違いない。
 電話は鳴り続けている。煩いと思いながら、根気よく電子音が途切れるのを待つ。

 −−二十回ほど電子音が鳴り響いたところで、拓也は根負けして受話器を取った。
『た−−拓也か!?』
 その声は、唐突に人の名前を呼び捨てにした。読書中に電話をかけてくることで大体予想はついていたが、かなり無礼な人物のようだ。
「……はい、秋川拓也ですが。おたくは?」
『わ、私だ。源三郎だよ』
「私だ」と一言だけ呟くボスの電話で始まる随分と古いコントなどを思い出しながら、拓也は僅かに眉をしかめた。
 秋川源三郎。拓也の父である。
「何だよ……俺、そっちには戻らないからって、言ってあるだろ」
『そ、そんなこと言ってる場合じゃないよ。拓也、ねえ、落ち着いてよく聞きなさい』
 実際のところ、落ち着いていないのは源三郎の方だったのだが、拓也はそれを敢えて指摘する気にはなれなかった。
しばらく間を置いて−−深呼吸でもしていたのだろう−−源三郎が口にしたのは、
『美雪ちゃんが、おかしくなってしまったんだよ』
拓也の自制心を失わせる言葉だった。
「親父、それどういう意味だ!」
『だからね、彼女……二週間ぐらい前からおかしなことを口走るようになって−−で、つい二日前、気が触れちゃったんだよ』
受話器を握りしめた手が、じっとりと汗ばんでいる。心拍が上がり、体は情けないほど震えていた。
深沢美雪は、拓也の幼馴染みである。何をするにしても妥当な結果を出し、決して目立とうとはしない。それ故存在感が薄く、あまりパッとしない少女だった。自分の半歩後ろを常に付いて回るこの少女は、どうしてか妙に拓也の世話を焼きたがった。秋川・深沢という名家の生まれであることが、二人の距離を縮めていたのかもしれない。拓也は美雪が好きだったし、それはおそらく向こうも同じであったろう。閉鎖的に過ぎる村の体質に飽き飽きし、村を出ていこうとしていた彼を一番躊躇させたのは、彼女の存在であった。村を出ると告げた拓也に、彼女は笑って「いってらっしゃい」と言った。彼女の涙に気付かないふりをするのには、結構な忍耐力を必要とした。
(美雪……)
一時は、煩わしい存在だと疎んだこともあった。幼い少年にとって、仲の良い女の子の友達がいるというのは、決して喜ぶべきことではない。そういったことに憧れる年頃だからこそ、誰それと手を繋いだというだけで、一斉に囃し立てられてしまうのだ。ひねくれていると言ってしまえばそれだけのことだが、ともかく拓也は、小学校高学年のときには彼女を露骨に避けたりもした。
(それでもあいつは……)
拓也の後を付いてきた。いつからだろう? 息を切らせ、小走りに後を追いかけてくる彼女に悪いと思い始めたのは。
拓也にとって美雪という少女は、特別な存在だったのだ。
「……今から準備して、そっちに帰る」
『うん、そうしておくれよ。あれじゃあ、あんまり美雪ちゃんが可哀想だ』
 父の言葉を全て聞かずに、拓也は受話器を置いていた。箪笥から服を何着か取り出し、適当にバッグにつめる。
 財布の中には、確認できるだけで三万二千円が入っていた。帰郷するには多少金が足りない。
(銀行に下ろしにいかなきゃな……)
拓也はぐっと奥歯を噛みしめた。

 そして三日後、拓也は北海道秋沢村の土を踏んだ。
 
                 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 村は灰色のカーテンに包まれていた。雨は古ぼけた軒並みを叩き続ける。
 そう。通り過ぎる農家も、店も、全てが古い造りをしていた。時代の流れに取り残されたかのような風景を視界に確認しながら、拓也は漠然とした不安を覚えていた。
(俺が来たところで、何が出来る……?)
 勢いでここまで来てしまったが、自分が来たところでどうなるというのだろう? 自分は精神病医ではない。美雪のためにどうしてやることも、できはしないのではないか?
 それでも来なくてはならなかったのだと呟くと、拓也は前髪をかき上げた。床屋嫌いの彼は、雨に濡れると、長く伸びた髪が顔にぴったりと張り付くのだ。もっとも、それを不快に思う程、今の彼の精神は落ち着いてはいなかったのだが。それにもっと嫌なものが、今の彼を取り巻いている。
 拓也は、この世の何よりもこの村の空気が嫌いなのだ。
 何故と問われても、彼自身はっきりとは答えられない。閉鎖的、排他的な村の雰囲気、村人全員の秘密主義めいたものの考え方が、なんとなく気にくわないのだ。
 ふと、美雪の顔が思い浮かんだ。ゆったりとした春風のような、そんな笑顔の少女だった。都会に憧れる者達が多かった中で、彼女だけは心の底からこの村を愛していた。いつも彼女は言っていたものだ−−「この村で生まれたから、拓也ちゃんと会えたんだよ」と。彼女は無意味なまでにこの村を、そして拓也を愛した。
雨の勢いが強くなった。そして美雪の記憶もとめどなく溢れてくる。
 何故彼女を置いてまで、この村を出たのだろう。
そこまでして訪れた東京で、自分は一体何を得たのだろう。
(美雪は寂しかったに違いないのに……!)
 秋川と深沢の家は、この村を支える名家である。その生まれである二人は、しぜん他の子供達とはあまり馴染むことができなかった。敬遠され、虐められ……いつも二人きりで遊んでいた。それを苦しいとは思わなかったし、寂しいとも感じなかった。
 そこには美雪がいたのだ。
しかし拓也は村を去った。自らの半身である彼女を残して。
 村を去る際、彼は美雪を誘わなかった。拓也は美雪を愛していた。それ故に、拒絶されることが怖かったのだ。
知っていたはずなのに。
 そんなことは、決してないと。
「……俺は……馬鹿野郎だ」
 いつの間にか、それは声になっていたようだった。だからといって誰が聞いているわけでもない。拓也は何度か軽く頭を振ると、歩みを速めた。
 村の中央、秋沢神社の近くに、拓也の実家−−秋川家がある。
 一言で言ってしまえば、それはつまり洋風な屋敷だった。それ以上のことを一つでも語ろうとすれば、一言では済まなくなる。煉瓦を積み上げて造られたそれは、長方形になっていて、巨大な城壁のようだった。上方が丸くなった窓が左右対称にはめられているが、今は雨が叩きつけられているだけで、その身に何も映してはいない。見る者全てを圧倒するような、異様な存在感を持つ屋敷だった。
 巨大な木の門の前に立つ。両開きのそれには、二本の刀が交差している紋が浮き彫りにされていて、これが秋川家の家紋だった。呼び鈴を押してしばらくすると、門が大きな軋みを上げて内側に開いていく。
 扉を開けたのは、人の良さそうな、少し太り気味の老女だった。
「おや、おや、坊ちゃん……そんなに濡れてしまって……ささ、どうぞ中へ」
 通島加世子。秋川家に長年勤めているお手伝いである。拓也が子供の頃から面倒を見てくれていた女性で、何かと彼のことを気にかけてくれる。しかし拓也としては、そうやって『秋川家のお坊ちゃん』として扱われることこそが最大の重荷なのだが。
「……美雪は?」
 拓也が陰鬱な口調で尋ねると、加世子はやや沈んだ面もちで「坊ちゃんの部屋におります」と応えた。
「そう」
 それだけ言うと、靴を脱いで玄関ホールに上がり、大股で歩き出す。まるでそれ以上加世子と話すのが苦痛だとでも言いたげなほどに、彼の動作は素早かった。
  ホールの上から吊り下げられたシャンデリアは、しかし広すぎるそこを完全に照らすことはできないでいる。真正面には暗赤色の絨毯が敷かれた階段があり、そこを登って右に曲がると、階段と同じ色の絨毯が敷かれた廊下が続いている。廊下の両側には無数の扉が並んでおり、扉と扉の間には、コンプリート・シュート・アーマーやら油絵やらが飾られている。扉がそれぞれ別の部屋につながるものだとしたら、この屋敷の部屋の数は一体いくつになるのか、拓也は一度数えてみようと企んでいたのを思い出した。実際には途中で飽きてしまったわけだが、つまり一人の好奇心溢れる少年を飽きさせる程の部屋数があるということだ。まるで博物館とも思える廊下を歩きながら、「無駄に広い家はこれだから困る」などと小声で呟き、両の脚を投げ出すようにして進む。
 自室は廊下の突き当たりにある。豪奢な装丁の為された扉のノブに手をかけると、ゆっくりと扉を開けた−−僅かに軋む音がする。
「たーたん、おかえー」
 部屋に入った拓也を、沼底から這い上がってきた鯰のような、焦点のあっていない瞳を持つ少女の言葉が出迎えた。
「ただいま、美雪」
 ベッドに腰掛けた美雪の隣に座ると、拓也は優しい微笑みを浮かべた。先程加世子と言葉を交わした時とは正反対の態度である。
「ちゃんとお留守番してたかい?」
「うん! みゆねえ、いい子してたよ!」
「そうかそうか。偉いね、美雪は」
 そう言って頭を撫でられると、美雪は幼い童女のような笑顔を浮かべた。それを見つめる拓也の瞳は限りなく優しく−−そして悲しげだった。

                ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 恐怖の神話。例えばそれは黄泉に堕ちた伊弉冉尊であり、地獄に堕とされたルシファーであり、血に飢えたメタトロンであり、大神ゼウスに封ぜられたヘカトンケイルであろう。 かくの如き物語が、夢想者の気違いじみた頭から生み出された、まったくの俗信であると断ずることが、この世の誰に出来よう?
 それらはあるいは、夢現の世迷い言を奉ずる者の脳を脅かすかもしれないが、本来それらは表象であり類型であることを忘れてはならない。我らの内にある原型であり、そして永遠なるものである。
 そうでなければ、醒めた意識下では莫迦げた物語として認識されるそれらを、どうして我らの心が恐怖し得ようか? 我らの肉体に害をなせばこそ、かかるものどもが恐怖されているとでも思うのか? そのようなことは断じてない。これらの恐怖は、真実我らが内にそれらが存在するからこそのものであり、遙かに古い起源を持つ、我らの肉体を越えたものどもへの恐怖である。
腐れ果てる建造物の中で、あれは甦る。愚かなる程に悲しいかな、定命の者どもよ、この恐怖によって死に絶えた世界の死骸を、蒼き星をかすめる死の風が吹き抜けよう。そして同時に、不浄な神殿の柱という柱は、宇宙などというひどく不確定な空間の中にこそ台を持ち、そそり立つことを、汝らは初めて知ることになろう。
 汝らは恐怖を怠った。恐れ打ち震えるべき神殿の、林立する豪奢な柱を蹴飛ばし、それがどのような結果をもたらすかを予測できないにしろ、根元たる者に刃向かうとは。
 消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。
 三つの燃え盛る炎に飛び込みたくなくば、恐怖するべきであった。その恐怖は知恵となり、肉塊に潜み住む者どもとの接触を余儀なくされようと、清められたる火の尖塔に身を焦がされるよりは、どれほど良い結果であったことか。
 天に住み給う神々−−彼らのあの計り知れない、一種狂気ともとれる程の力を以てしてすら、地を焦がす炎を消すことはできまい。それを消すことができる者は最早ここにはおらず、そしてその力の持ち主ですら、自らの役割など忘れているだろう。
根元たる我らの恐怖よ、今こそ氷河よりいでて、その神秘なる体躯におぞましき死の腐臭をまとわりつかせ、絶望の風の中を彷徨え!
氷河を破る者は、名を変え、姿を変え、深く浸透する。
消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。
炎だ! 闇を切り裂き、恐怖を払拭し、それにより免れ得ぬさらなる混沌を撒き散らすのは! 炎なのだ……『GEYZER』なのだぞ!
夜半の同胞、朋類よ、走狗の遠吠え、囁き滴る鮮血に満悦する汝、墓地に集う黒影の直中を彷徨う汝、血汐を求め死すべき定めの者に明けぬ夜をもたらす汝、禍々しい深淵より流れいでたる汝、永劫の時を閲し大洋となる暗黒の裂溝を住処とする汝、弱々しい呪いによる束縛におぞましき叫びを叩きつける汝、千の炎の神、めでたくその復活の時を!
 消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。消滅させよ。見よ。追放せよ。守れ。消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ。消滅させよ。倒せ。追放せよ。守れ……。