「死」という病。



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投稿者: 架空の犬 @ 203.140.15.32 on 97/8/11 20:44:42

In Reply to: 「死」について・・・

posted by 錦太郎 @ sutkmax1-ppp22.ed.kagu.sut.ac.jp on 97/8/11 15:06:08

> 人は生まれたからには必ず死ななければならない。死は必ずやってくる。
> この死を考えずして生を考えることができようか・・・
> このだれもが100%訪れる未来「死」について意見お待ちしています。
個人の話ですが私の場合、「死」の恐怖は早く、それは日曜教会や、
キリスト教信者の人が子どもたちを集めて話す聖書の語りでした。
幼稚園の最年長から小学4年までの間ですが。
小学1年の時のあの林檎と罪と楽園からの追放と死については想像力過多だったのか
聞いたその日に家に逃げ帰り、涙を流した記憶があります。
その時の「死」の病は愛するものがいなくなるという恐怖でした。
#子どもの時なのでそれは家族であったり隣人であったり友人であるわけですが。
そして聖書の祈り(「天にまします我らの神よ」ってやつです)が暗礁できる頃には、
自分への「死」の恐怖を知るようになりました。
その時感じたのは言葉であり声でした。
他人が自分をわすれることなど、どうとも思わないし(自身が忘れっぽい)
ただ自分の声。それは相手に対して発する声であり、自分自身と向き合って発する声。
それが失われてしまう恐怖。今この瞬間に「死」について考えている自分が存在しなくなる恐怖。
「死が沈黙を強いる」というその事実。
それこそが自分を対象にした「死」の恐怖でありました。
#まぁ今は詩、哲学、論文、物語という存在によって難しい言葉や違う考えをえてしまったのですが。
#でもこの自分が発する声を意識できるのなら、死にたいしてとりたてて空虚になることもないかと。
最近思うのですが、
この「死」の部分でSTOPしちゃう人間は多いのですかね。
どうも今の文化は夢とか奇跡とかそんなどうでもいいようなふわふわな雲みたいな言葉の存在が多いし。
#「夢」は大切だと思いますが。
またひるがえってサブカルチャーもあいもかわらず「死」が蔓延してます。
もっとも私には今を生きようと急ぐ人間にしても「死」の病が見える気がします。
享楽主義者には特に。あとは自己改革好きでポジティブシンキングな人達。

題名の「死」という病ってのは
その存在の意義が希薄に感じた(本人はきづいてなくとも)人間において
お手軽な「おもちゃ」感覚になってしまった「死」。
どうも「死」は「死」本来の姿でなくして最近では病のようにそのイメージだけが感染してる。
って意味で使ってます。
わりと昔から個人的には
生きることは「興」
故に生きて死ぬことも「興」
死もまた第2の人生なれば、その永遠に身を任せ、今生きんと欲し、死せば死者に従う。
#まぁ死がなんであれそれが「何もない」のであれば覚めることのない睡眠でいいかなとも。
#寝る前に苦しんでか安らかにかで、随分ちがうのでしょうけど。
#少なくとも死の先に何かあるって考えや転生って奴は私にはたまらなく辛い発想です。
ちなみに私はキリスト教徒じゃないです。
少なくとも「死」について自分で考える事は絶対に好いことだと思います。
あまり他人の意見に左右されずに自由な心で考えるのが一番なのかと。
#なんかのんべんだらりと生きてやろうって意図がみえみえですね。私の文章。