Re:死を見つめる心



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投稿者: 錦太郎 @ sutkmax1-ppp02.ed.kagu.sut.ac.jp on 97/8/12 00:22:28

In Reply to: 「死」について・・・

posted by 錦太郎 @ sutkmax1-ppp22.ed.kagu.sut.ac.jp on 97/8/11 15:06:08

東大教授の岸本英夫さんの「死を見つめる心」という本を要約して書いてみたいと
思います。この死を見つめる心という本は癌におかされた岸本さんの闘病中の記録を
まとめたものです。

(以下 「死を見つめる心」より抜粋)

        

ガンの宣告



 その年の四月頃、私は喉の下に当たるところに,異様な固まりができているのに
気づいた。グリグリが大きくなったような、鶏卵大のシコッたものであった。指
で押しても、痛くもなんともない。そこでS医の診察を仰いだ。
 いろいろなマイシン剤を飲んだが、一向、消失しないまま数ヶ月を経過した。
別に心配はないが、念のため、摘出してみようということになった。
(中略)
 私はふと、どうしてそんな急に調べなくてはならないのか?と聞き返した。
 すると、クレスマン博士は一語一語注意深く、
「これが、単純なリンパ腺の膨張だと、問題はなかったのですが、増殖性のものだ
ったので・・・」
 と言った。
 それまで、至極、陽気であった私もハッとした。もしやガンでは、と尋ね返した。
「そうです。そういう疑いが十分なのです」
(中略)
 病院からの帰りの車の中で、ふと気がついてみると、心が既に異様に緊張しているのを
知った。ほんの一時間ほど前、病院に向かうときには,冗談でも言えそうなゆったりした
気持ちであった。同じ車に乗っていながら、今は全く別人のような心持ちになっている
自分を見出した。
(中略)
 その日の夜が、第一の関所であった。
ガランとした部屋に、ただ一人とり残されてしまったような気がした。そうすると、
改めて事の重大さが激しい実感をもって、身に迫ってきた。
 ソファに腰を下ろしてみたが、心を下の方から押し上げてくるものがある。よほど気持ちを
しっかり押さえ付けておかないと,ジッとしていられないような緊迫感であった。
 我しらず、叫び声でもあげてしまいそうな気持ちである。
 いつもと変わらない外の暗闇が、今夜は得体の知れない固まりになって、私の上に
襲いかかってきそうな気がした。


生命飢餓状態に身をおいて



死が目の前に迫り、もはや全く絶望という意識が心を専有したとき、にわかに心は
生命飢餓状態になる。
 そして生命に対する執着,死に対する恐怖が筆舌をこえた凄まじさで,心の中に
おこってくる。
 生命飢餓状態は、食べ物に対する飢餓感に酷似している。胃袋に食物が満ちてい
るときは、飢餓感を感じない。もちろん、満腹の時も食欲について語ることはできる。
 だが、それは食物の味の良い、悪いということと関連してくるにすぎない。痛烈な
飢餓感ではない。
 ところが胃袋に食物のない人は、もっと本当に腹の減った苦しみにさいなまれている。
それは単に、観念的に美味しい食べ物について考えただけでは、決して癒されることの
ないものである。
 生命の飢餓感も、それとまさに同じである。明日も、あさっても、そしていつでも
生きてゆくことができると考えている人の心は、生命に満ち足りている。生命に対して
飢餓は感じていない。それゆえ、そのような人は観念的には死の問題を考えても、
生命飢餓状態におけるような激しい生命欲にさいなまれてはいないのである。
 生命飢餓状態におかれた人間が、ワナワナしそうな膝頭を抑えて、一生懸命に頑張り
ながら、観念的な生死観に求めるものは何であるか。
 何かこの直接的な激しい死の攻撃に対して、抵抗するための力になるようなものが
ありはしないかということである。それに役立たないような考え方や観念の組立は、
全て無用の長物である。


血みどろの戦い



 死の苦しみは、予告されたその刹那からはじまる。
 そのころ、私は戦時中の空襲のことを思い出していた。敵機が近づくとあの空襲警報
の不気味なサイレンがなった。それを聞くと、心がギュッと緊張した。
 だがガンの場合、空襲警報よりもっと始末が悪かった。
 空襲警報の場合は、警報解除ということがあった。警報中もやがて解除になれば
ホッと一息つけるという楽しみがあった。しかし、ガンとの戦いにあってはそれがない。
警報解除ということがない。朝から晩まで、心は緊張しつづけである。
 私はこの2週間の間に、今更ながら、人間の生命への執着の強さをしった。
 一度、生命が直接の危機にさらされると、人間の心が、いかにたぎり立ち、猛り狂う
ものであるか。私は身をもってそれを感じた。
(中略)
 私の内心は絶え間ない血みどろの戦いの連続であった。


見かけの幸福



 人間が普通に幸福と考えているものは、傷つきやすい、見かけの幸福である場合
が多いようであります。それが本当に力強い幸福であるかどうかは、それを死に直面
させてみると,はっきりいたします。
 たとえば、富とか、地位とか、名誉とかいう社会的な条件は、たしかに幸福を
作り出している要素であります。また、肉体の健康とか、智恵とか、本能とか、
容貌の美しさとうような個人的な条件も、幸福を作り出している要素であります。
これが、人間の幸福にとって重要な要素であることは間違いないのであります。
 だからこそ、みんなは、富や美貌にあこがれるのでありまして、それは
もっともなことであります。
 しかし、もし、そうした外側の要素だけに、たよりきった心持ちでいると、その
幸福はやぶれやすいのであります。そうした幸福を死の前に立たせてみますと、
それがはっきり出てまいります。今まで輝かしく見えたものが、急に光を失って、
色あせたものになってしまいます。
 命はお金では買えない。社会的地位は、死の問題に答えてくれないのです。


死の苦しみ



 死は,ほとんどのすべての場合、肉体的な苦痛を伴う。
それゆえ、死の苦しみについて人々が思うのは、死に至るまでの肉体的苦しみである。
 高い熱が何時までも続く。胸が締め付けられるように苦しい。呼吸が困難になる。
脈拍が乱れる。席がのどにつまる。異常な神経の興奮と不安のために、夜は眠れない。
真っ暗な空間をジッと見つめて、夜明けまでの長い時間を待たなければならない。
美しかった人の皮膚も、ツヤを失って青黒くなる。やせ衰えて醜くなる。そして、
ついに断末魔の苦しみがくる。
口からは泡を吹き、大小便を垂れ流して、あえぎながら最後の息をひきとる。
 思ってもゾッとすることである。健康を誇り、日々の生活を楽しみ、美しく着飾って
上品な立ち振る舞いをしているつもりのこの自分に、そのような恐るべき苦しみ、
醜さ、浅ましさが、黒い大きな口を開いてまっているのだ。
 そこで、死に至るまでの病の苦しみさえなければ、と人は考える。
それさえなければ、
死もそれほど怖くない,とすら思う。
 しかし、その考え方はまだまだである。
 問題はそれほど単純ではない。死の苦しみの中には、もっともっと深刻なワケが隠されている。
肉体の苦しみは死に至るまでのことであり、途中の苦しみに過ぎない。死そのものの苦しみではない。
死に至るまでの肉体的な苦しみと、死そのもののもたらす精神的な苦しみは別物である。
死の苦しみはいわば二重の構造をもっている。
 死自体を実感することのもたらす精神的な苦しみが、いかに強烈なものであるか、
これはしらない人が多い。否、寧ろそれを知らないでいられるからこそ、人は幸福に生きておれるのだろう。
 しかし、死に直面したときにはそうはいかない。その刺し通すような苦しみが、
いかに強烈なものか、そのえぐりとるような苦しみを,心魂に徹して知るのである。
 死にたくない、生への執着は人間の五体の中をかけめぐり、ところせましと猛り
狂う。手足の末端にある細胞の一つ一つまでが、たぎり立つ。
 こおのような、直接的な、生理心理的な死の恐怖の前には、平生用意したつもり
であった観念的な解決は、影の薄い存在になってしまう。


人は忘れている



 人間が日常の生活の中で、社会的にも、医学的にも、生命の安全を保証されて
生きているときは、生命の飢えはない。生命を満喫しているからである。
 したがって、生への執着は表面に出てこない。人間は生命への執着が、
どれほど強烈か意識せずにいる。ちょうど食物をいっぱい食べて、おなかがいっぱい
だと考えているときには,食欲を全く感じない。それと同じ事である。
 健康な人間は、死が何時来るかわからないということを忘れて生きている。
 やがて死すべきものが、何時までも死なないような気持ちでその日その日を暮らして
いるのである。
 その点では、人間の日常生活は、一つのごまかしの上に営まれている。


死は必ずやってくる



 死は突然にやってくる。思いがけないときにやってくる。いや、寧ろ、死は突然にしか
やってこないと言ってもよい。いつ来ても、その当事者には、突然に来たとしか感じない
からである。生きることに安心しきっている心には、死に対する用意が何もできていない
からである。現代人の場合は殊にそうである。
 平生、死を全く忘れているだけ、死に直面したとき、あわてふためいて、なすところを
知らない。
 しかも、しというものは、一度来る、となると実にあっけなく来る。まことに無造作に
やってくる。無造作であるばかりでなく、傍若無人である。
 死は来るべからざる時でもやってくる。来るべからざる場所にも、平気でやってくる。
ちょうど、きれいに掃除した座敷に、土足のままで、ズカズカと乗り込む無法者のような
ものである。それはあまりにも、ムチャである。しばらく待てと言っても、決してまとうとしない。
人間の力ではどう止めることも、動かすこともできない怪物である。


人間存在の根本矛盾



 人間はどうしても死ななければならない。しかし、どうしても、死にたくない。
この矛盾を解くためにはどうしたらよいのか。
 死の問題は、どうしても解かなければならない問題として、人間のひとりひとり
に対して、繰り返し繰り返し提起される。どうしても解かなければならないけれども
私にはどうしても解くことができない。     

(以上 「死を見つめる心」より抜粋しました)

長い文を読んでくれてありがとう!(^0^)
この「死を見つめる心」は実に「死」についてよく書かれていると思います。
少し考えれば誰にでもわかることだと思うんです。しかし、知識と実感は違いますから
私はまだ死なない、あるいは、死は怖くないと思ってしまうんだと思います。
「死」を考えその解決をするということほど前向きなものはないと思います。
みなさんはこの「死を見つめる心」をどう味わわれますか?